【中国あれこれ】『第七章 現代中国への道 ⑥ タクラマカン砂漠』

1987年夏、新疆ウイグル自治区庫車(クチャ)、我々砂漠専用車実験チームは石油工業部(現中国石油天然気総公司)の招待所でタクラマカン砂漠に入る為の許可書発行を待っていた。クチャに到着してから既に三日が過ぎていた。気温は45度を超え、酷暑の中、連日3台の実験車両の整備が続いた。石油工業部側は当局との交渉に奔走した。しかし、許可書がなかなか批准されない。ここで足止めを食らうとは想定外だった。

既に数カ月、雨は降っていないという。大地はカラカラに渇き、ギラギラとした太陽が憎らしく近くに感じた。

レンガ作りの招待所は決して立派なものではなかったが、レンガは遮熱効果を持つようで、室内温度は30度を超えていたが外気温に比べれば涼しく感じた。汗は全くかかない、乾燥しきっているせいか体はべとつかず、さらっとして汗臭くもなかった。当時はまだペットボトルの飲料水などは存在しなかった。水分補給を絶やさない為に別棟の食堂から魔法瓶で飲料水を持ってくるしかなかった。

1980年代から1990年代にかけて、日本自動車メーカー各社は中国向けに大量の完成車を輸出してきた。ディーゼルトラックメーカー各社も中国向け輸出車両で生産ラインはフル稼働状態となり、横浜大黒ふ頭は出荷待ちの中国向け車両で溢れた。順調にみえた中国への輸出だったが、後にそれらの車両が大きな問題を引き起こすことになる。

中国側からM社の大型カーゴトラックフレームに亀裂が生じたとのクレームがついた。大型トラックのフレームは分厚い鋼材でできている。亀裂が入るなどということは俄かに考えられることではなかった。M社はその実態調査を行い、亀裂は中国側の使い方の問題であるとして、そのクレームを受けなかった。過積載を疑ったのだ。当時貴重な外貨を使って輸入した中国は猛反発した。これがきっかけで日本車へのクレームが多数公表された。それはいすゞ自動車にも起こった。それは石油工業部が輸入した15トンカーゴトラックだった。 石油工業部の主張は「積載量15トンのトラックに鋼材15トンを測って積んでいる。明らかにメーカー側の責任である」というものであった。クレーム交渉は長期化した。いすゞ側は積載量が正しければ亀裂は100%発生しないと反論を繰り返した。

しかし、それは間違っていた・・・・。

石油工業部側は確かに15トンの鋼材を積んでいたのだ。ただ、問題は道路にあった。今では想像がつかないほど当時の中国郊外の道路は整備が遅れていた。車両が上下に踊るような所をトラックは走るのである。当然のことながら積み荷の鋼材もその振動を受け上下に弾んだ。鋼材は容赦なく荷台を叩きつけた。弾む度に15トンの鋼材は何倍もの応力となってフレームを痛めつけた。その状態で使い続ければフレームに亀裂が入ることは否定できなかった。悪路を走ってはいけないとは契約書に書かれていない。

いすゞは設計品質問題には当たらないことを技術的に説明し、中国側からその理解は得られたが、フレームの亀裂に対しては強化フレームに交換することで決着した。  しかし、車両が動かせない期間の経済損失がそれとは別に求められた。それに応じることは困難を極めた。交渉には日本から大型車設計部長、大型車開発主管、海外サービス部長等が北京に何度も足を運んだが、交渉は険悪の状態で長期化した。一番若かった私は交渉の記録を必死にメモした。私にしか読めないような文字で書かれたノートは数冊にも及んだ。

数か月が過ぎた頃、強化フレームを中国に送り込み数十人体制で現地での交換作業が始まった。経済損失交渉はなおも続いていた。何回目かの交渉で石油工業部の責任者が言った。
「本日は提案があります。我々石油工業部はタクラマカン砂漠の油田採掘事業に取り組んでいます。経済補償金を砂漠の物資輸送専用トラックの開発に充ててもらえないでしょうか」

 砂漠専用車? いったいどんなトラックなのか。

「砂漠の油田で働く者の生活物資を運ぶことは大変なことなのです。現在ベンツの全輪駆動車で運んでいますが不具合が起きると暫く止まってしまいます。水が止まれば死活問題になります。砂漠でも走れるトラックを開発してほしいのです。簡単ではないことはよく理解していますが検討して頂きたい」

タクラマカンとは現地の言葉で「入ったら死んでも出られない」という意味だと知ったのは後のことだった。いすゞは動いた。砂漠専用車の開発に挑戦しよう。

その後は石油工業部の技術者と共同開発の名目でプロジェクトが組まれた。試作車を日本の砂丘に持ち込んだ。走った。これならいけると第一号試作車をタクラマカンに送った。結果は全く役に立たなかった。砂漠の中に入るまでもなく粒子の細かい砂は試作車が砂漠に入ることを拒むように砂漠の入口付近で動きを止めた。開発部隊は頭を抱えた。日本の砂丘とは砂が違う。

石油工業部の要求は物資輸送用のカーゴトラックと飲料水を運ぶタンカーだった。砂漠に道はない。まるで白い海を進むように砂の高低はまるで荒波を越えるかのようだった。車両はねじれながら走行することになる。それこそフレームへの負荷は想像を遥かに越えていた。それでも日中双方は諦めなかった。第二試作車は何とか砂漠内に入ったが油田までの数百キロを耐えられるものではなかった。第三試作車も同様に合格には至らなかった。しかし、一つ一つ問題を解決していった。

「次の試験を最後にしましょう。次のテストで要求条件がクリアできなければ開発は諦めましょう」石油工業部もギリギリだった。

最終試作車3台が完成した。荷台の長さが違う二種類のカーゴトラックとウォータータンカー1台がクチャに運ばれた。最後のテストに私は同行した。実験チームの雑用係だった。クチャに到着して五日目、石油工業部の人間が笑顔で我々に伝えた。

「許可が下りました。明日出発します」と。

クチャはタクラマカン砂漠の入り口の街だった。数キロ先には砂漠が広がる。翌朝、我々は各車両に分乗して出発した。いすゞ車3台、ベンツトラック2台、米国製のハマー2台のキャラバンだった。

砂漠の縁に着いた。そこにはまだ背の低い植物も生息していた。そして、そこにはないものが、あった。川だった。夏のごく短い間、崑崙山脈の雪解け水がタクラマカン砂漠に流れてくるこの川は、崑崙山脈のわずかな夏だけに突如出現し砂漠にその姿を消す幻の川だった。それを渡らなければ油田には行けない。神はどこまで試練を与えるのか。数十メートルにもなる川幅の一番短い場所を探す。水深を探るためにそこにいたクチャの人間を雇い浅瀬を探した。最終試作車は直径約140センチ、幅は約60センチの特大タイヤを装着していた。車高が高いことから浅瀬であれば渡ることが出来たが、随行したハマーは浅くても渡ることが出来ない。その時、クチャ人が叫んだ。「筏(いかだ)がある!」ちょうどクルマ一台が載る筏で物を運んでいる人達がいた。「助けてくれないか。このクルマを向こう岸に渡してほしい」石油工業部の技術者がその主に言った。「この砂漠の未来を創るために我々は油田に行かなくてはならない」 

「分かった、運ぼう」筏の主はそこにいた身内に指示した。全員が川に入り筏を岸に寄せた。クルマは人力で幻の川を渡った。

油田まで約200キロの距離を途中で一泊して進んだ。灼熱の太陽が「タクラマカンにようこそ。覚悟して進めよ」と嘲笑っているように見えた。数十キロも進むと見える世界が一変した。雲一つない真っ青な空と砂漠の白、そこには二色しかなかった。その光景は同じ地球とは思えないものだった。試作車は止まることなく進んだ。このまま目的地の油田まで辿り着いてくれと願った。

「今日はここで野営します」石油工業部の世話人が言った。あの険悪な交渉は既に過去のものとなり、我々は中国側メンバーと同じ目的目標を完全に共有していた。車両のヘッドライトが唯一の科学的「光」だった。前方を突き合わせヘッドライトの灯りを頼りに中国側が大きな鍋で麺を茹でてふるまってくれた。素朴な麺が美味かった。

「我々が交代で砂嵐の番をするから、皆さんは休んでください」と石油工業部が言った。砂嵐? 風もなく静かな夜だったが「自然はいつ怒りたくなるか分からないから」と彼らは笑った。そして、万が一嵐が来たら笛を吹くからすぐに車の中に乗ってくださいと付け加えた。

ヘッドライトが消された。闇になった。光は何もない。寝袋から空を見上げた。満天の星が蠢くように広がった。天の川とは本当に川のように足元から頭の上に流れて見えた。人の形が黒く見える。人影の背後が全て星だからそこに人がいることが分かった。

翌日、試作車は無事油田に到着した。コンテナーを改造した油田基地には20名ほどの石油工業部採掘部隊が常駐していた。10日間ぶりの生活物資と水を届けた。皆笑顔だった。過酷な環境で働く彼らの為にもこのプロジェクトは成功させたいといすゞのメンバー全員がその時思ったに違いない。

最終テストに適した場所を探した。勾配8~10度を約200m上らなければならない。前回までは砂を掴むことが出来ず、その距離を達成することはできていなかった。10トンの重りを積載して車両準備を整えた。勾配の頂上には開発の主管と石油工業部の技官トップが立った。私はその通訳として主管の横にいた。実験チームのドライバーがエンジンをかけた。ギアが入る。大きなバルーンタイヤが砂を掴んだ。後方に砂が飛び空回りした。ダメか。動かないか。

「大丈夫、上ってくる」石油工業部の技官が先に言った。「上がってこい!」

試作車にその声が聞こえたかのように車両はゆっくり上り始めた。途中でギアが変わるのが分かる。悲鳴なのか覇気なのか、大きなエンジン音が静寂な砂漠に鳴り響いた。「上がってこい!」「がんばれ!」「上がってこい!」「上がってこい!」「上がってこい!」日中トップ二人はいつの間にかお互いの手を握り合って叫んでいた。車両の大きな顔が近づいてきた。あと50m、30m、10m・・・・・・上がった。 二人は抱き合ってお互いを讃えた。「ありがとうございます。ご苦労様でした。これで物資を安心して運ぶことが出来ます。皆さんの努力に敬意を表します」と私は泣きながら通訳をしたことを今も忘れない。

その夜、油田基地では大宴会が開かれた。全員で肩を組んで白酒を飲んだ。我々が運んだ食材で油田に常駐するコックが作った料理はとても砂漠のど真ん中で食べているとは思えない美味しさだった。

時代は変わり、タクラマカン砂漠には道路も建設され、2022年6月、総延長2712キロの世界初となる砂漠を走る環状鉄道が完成した。観光客がタクラマカン砂漠を訪れるとは、あの過酷な状況を知っている者としては信じ難いが、中国の発展がそれを証明している。

(幅舘 章 2024年4月)