処暑-八大胡同(2017年8月23日 小雨時々晴れ 最高気温 32℃、最低気温 22℃)
処暑(しょしょ)になり、暑さもひと段落です。と言いたいところですが、今年は北京も日本と同様に、雨模様で湿度が高い日が続き、カラリと晴れた夏が過ぎたという感じがしません。今日も朝まで雨が続き、やっと晴れ間が顔を出しました。
さて、今回は“八大胡同(ba da hu tong)”を紹介します。ここは、昔(新中国の成立以前)、歓楽街として名を馳せ、今でもほとんどの北京の人たちは、その名を聞いただけで、どのような場所であったか分かるところです。
“八大胡同”は、直訳すれば“八つの大きな路地”ですが、八本どころか、幅が狭いものから広いもの、長さが長いものから短いもの、更には袋小路まであり、沢山の路地が縦横に入り組んでいます。場所は前門の南西、「大柵欄(da shi lar)西街」より南側の一区画を指します。
前回(立秋・本年8月7日)に引き続き、歴史の話となり恐縮です。今回は、“八大胡同”の生い立ちを極々簡単に振り返り、その後、今の状況とそこに暮らす人々を紹介したいと思います。
時は18世紀後半、在位61年間に及んだ乾隆帝は、10回の外征を経て、清朝最盛期を作り出します。それに伴い、首都北京は活況を呈し、娯楽の一つとして、京劇などの上演が盛んに行われるようになります。地方の劇団も北京に集まるようになり、彼らは、劇場がある大柵欄(da shi lar)に近いここ八大胡同に棲みつくようになります。そのうち、女形が男娼として、春をひさぐようになったのです。当然の流れですが、時が経つごとに同性から異性へと選手交代が行われました。清朝後期には、男娼は姿を消し、遊郭は許可制となり、光緒庚子年(1900年)には、300軒余の遊郭があったと伝えられています。中華民国の時代に入り、ここは最盛期を迎え、民国7年(1918年)には遊郭406軒、遊女3,880人、私娼7,000人にまで増えますが、首都の南京への移転や日本の統治を経て、新中国成立(1949年)の後、全ての遊郭は閉鎖され、今では、普通の庶民が住む北京の下町になっています。
「朱茅胡同」にある建物です。“聚宝茶室”と刻印されています。清朝後期、遊郭は一等から四等まで、四つのランクに分けられていました。一等が最上級で、部屋の調度は全て高級品が揃えられ、女性は吉原の花魁(おいらん)のように格式が高かったそうです。二等は“茶室”と呼ばれ、一等よりは調度も劣っていました。
「朱家胡同」です。きれいな外壁に覆われた二階建ての建物の門の上には、“二等茶室 臨春楼”と、刻印された表札が残っています。
「棕樹斜街」にある“一品香 高級浴”と人目を引く金文字で書かれた浴場の入り口です。この門を潜りますと、細い道に続きますが、今は閉鎖されているらしく、浴場は発見できませんでした。
「石頭胡同」にある黒く汚れてはいますが、外壁に様々な紋様が施されている建物です。この胡同には石頭(いしあたま)のおじいさんが住んでいたわけではありませんで、中国語では“石”のことを“石頭(shi tou)”というのです。そのため、「石頭胡同」は日本語では“石ころ路地”といったところです。
建物の二階部分には、左から“芳舎”、“玉と天(和は接続詞)”、“秀餐”と大きな字が書いてありますので、当時のレストランであったことは明らかです。入り口の両側には、“本館は満漢酒席ができます”とも書いてあります。
新中国の成立の後、文化大革命などの大きな嵐が吹き荒れたにも拘らず、ここ八大胡同には、今回紹介した以外にも、まだ沢山の遊郭やレストランなどの遺構が残っています。これらは、今では、多くの家族が部屋毎に住む雑居ビルのようになっていて、修繕する人もなく、朽ちるに任せるといった状況です。このような負の面を持つ歴史的な建築物をどのように取り扱うのか、真剣に検討すべき時期に来ていると思いますが、我々日本人が口をはさむべきではないのかしれません。
「陝西巷(巷は胡同と同様路地の意)」にある“上林仙館”という昔の遊郭の建物です。右側の建物の外観を撮っていましたら、突然、パンツ一丁で、背中に竜の刺青を入れたお兄さんが宅配の弁当(今北京で流行っています)を取りに出てきましたので、慌ててシャッターを押しました。中国も日本と同様、この手の方はややこしいと相場が決まっていますので、これ1枚きり、更に追いかけてシャッターを押す勇気はありませんでした。
“上林仙館”は、今ではドミトリーのホテルになっています。一つの部屋に二段ベッドが二つ、計4人が泊まれます。青年向けということで、中国人ならば18~35歳まで(但し、外国人は年齢制限がない)しか宿泊できません。以前は見学可能でしたが、今年の年初から見学禁止となりました。そのため、1泊89元(約1,500円)の最低宿泊料金を払って、ホテルの中に入り、写真を撮ってきました。お金がかかっていますので、沢山撮りましたが、残念ながら紙面の関係で1枚しか掲載できません。
北京には、「四合院」作りという正方形なり長方形の敷地に、平屋の建物を南北東西の四辺に配し、真ん中を空間(庭)とする建築様式があります。故宮や前回紹介した恭王府など、北京の代表的な建物のほとんどがこの様式で、北京人が一番好むものです。この建物も「四合院」様式の発展形態で、四周全てに部屋を配し、二階の手すりは遊郭らしく湾曲を入れて粋な空間を演出しています。
胡同を歩いていて、インコを飼う84歳のおじいさんに出会いました。日がな一日、家の前に座り、脇の小さなテーブルに白酒の入った急須とおかずを置き、ちびりちびりやるのが日課だそうです。我々のような物好きがインコをネタに話しかけると、「待ってました」とばかり、話を始め、今度は話が止まらなくなります。我々が話をしていると通りがかりのおばさんも自然に会話の中に入ってきました。中国人の人懐こい(ひとなつこい)ところです。
女の子が家の前で髪を洗う姿を見かけました。この写真をご覧になって、北京はまだこのような状況かと、誤解されるといけませんので、ひと言説明します。現在、中国は経済発展を遂げ、北京でも地方都市でも、高層マンションが数多く建ち並び、その中の部屋は立派で、全て風呂付です。そのため、このような店先でホーローのたらいを持ち出して髪を洗う光景は、昔はよく見かけたものですが、今では、滅多に見られない貴重なものとなりました。100年前には歓楽街として時代の最先端をいっていたところが、その遺構があるがゆえに取り残されるという日本の下町と同じような現象が、北京のど真ん中で生まれているのです。
先ほど書いた通り、時代の発展に取り残されているここ八大胡同には、昔あったものがまだ生き生きと残っています。それは、路地で遊ぶ子供の笑い声であったり、玄関前に置かれた緑をたたえる鉢植えであったり、どこからか聞こえてくるマージャンの音であったり、万有引力に逆らわなくなった乳房を隠すでもなく、薄い下着1枚で歩いているおばあさんであったり、上半身裸でつえを持って座っているおじいさんであったりと、まるで、昭和の時代にタイムスリップしたような錯覚に陥ります。それにまして、ここの大小の道は、曲がったり、途切れたり、斜めであったりして、胡同の奥に入れば入るほど、方向感覚が麻痺し、いったい自分がどこにいるのか、分からなくなります。まさに、ここは頭を狂わす場所なのかもしれません。
そんな話をしていましたら、若い友人から、
「今は携帯の地図アプリがあるから、迷いませんよ!」
と、ひと言で片づけられてしまいました。
文・写真=北京事務所 谷崎 秀樹
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