【日中不易流行】『「野尻眼鏡」中国盛衰記➆』

今回は、2012年の野尻眼鏡本社の破綻以降今も脈々と中国で引き継がれている野尻眼鏡の系譜についてご紹介したいと思います。引き続き2012年の清算業務を担ったS総経理からのヒアリングを参考にしています。

ところで、「撤退戦」は難しいですね。如何に被害を最小にして速やかに撤退するかは、過去の戦争の実例にもある通り、的確な情況判断、迅速な決断、確実な実行力が求められます。さらに、後ろ向きの仕事と見られ、モチベーションは下がり気味です。『撤退戦の研究』(半藤一利、江坂彰 2000年)や『撤退の研究~時機を得た戦略の転換~』(森田松太郎 杉野尾宜生 2007年)を読み返し、改めて撤退現場のいわゆる「しんがり部隊」の困難さを痛感しました。野尻の場合は極めて急な短時間の撤退で、S総経理は本社の支援もなく孤軍奮闘での辛酸をなめました。今回10年前の話とは思えないリアルさで様々なエピソードを熱くお話いただきました。私にも1999年の地銀上海事務所や2000年の四川野尻の撤退戦の経験はあるものの、それらは命の危険さえ感じる「修羅場の戦い」でなく、幸いでありました。

そんなことを聞くと、本当の有事にはいったい何が起こるのだろうと思います。現在、米中分断や台湾有事の可能性を絡ませて安全保障リスクが取沙汰されていますが、色んな機会に「出口戦略」や「事業再編」について社内にタスクホースを立ち上げ検討している、と若干焦点をぼやかして撤退スキームが議論されているのを聞くと、撤退を転進と言った過去の日本人の言霊信仰を感じたりしています。決して無用に危機を煽るつもりはないものの、いまそこにある危機に対しては、毅然と最悪を想定して最善を尽くすのが今こそ必要だと感じています。改めて、危機管理面だけではなく、「日本人はなぜこうも性懲りもなく同じ失敗は繰り返すのか?」と歴史好き・戦記好きの私は自問自答しています。

さて、閑話休題。この一年間の野尻眼鏡に関係する情報収集の中で、日本では雲散霧消した野尻眼鏡ですが、その遺産、レガシー、系譜、残滓、痕跡、爪痕…が何か残っていないか、が疑問となりました。

野尻の名前は本当に中国で跡形もなく消えてしまったのか?かつて高級眼鏡の代名詞で、顔に架ける眼鏡に尻のつく奇異なブランドで中国人に人気があった「野尻」ブランドはどうなったのか?百度でネット検索すると抗日映画の旧日本兵「野尻正川」の名前とともにヒット(珍しい野尻の姓も野尻眼鏡の影響かもしれない)。今でも野尻(Nojiri)の眼鏡は「野尻新世紀」(Nojiri New Era)として存在していた。まさにNew野尻。チタン製1,000元程度で高級品。説明には2006年誕生で、「野尻の技術と匠心」とあるが、製造者名は不明。深圳産品とあるが、何故か出荷元が山梨県甲府。どういう経緯で何者かはこれからの調査ですが、本家野尻の何らかの流れを受け継いでいる可能性は高い。野尻ブランドが中国で築き上げた高品質のイメージを継承して、中国現地化してしぶとく生きていたことに感慨は深い。いわばもう絶滅したと思っていた在来種が雑種化して生き延びていたのを発見した喜びだった。

 【野尻新世紀ブランドの眼鏡】(ネット百度より) 

もう一つの発見。上海新野光学眼鏡有限公司という会社が清算された上海野尻光学有限公司と同じ住所(上海嘉定区北和公路)にあることが分かった。会社紹介には、元々上海野尻眼鏡有限公司で1989年設立との記載もあった。以下会社概要。

・設立:2014年2月14日
・資本金:1000万人民元
・経営範囲:チタン(純鈦)製眼鏡・部品製造他
・「野尻」の商標権は2019年12月に登録

設立は、上海野尻光学が営業停止した2012年2月13日のちょうど2年後であり、何か裁判の関係で意味があるのかもしれない。2014年2月に、元上海野尻(精科光学)立上げのメンバー(1998年退職)であったO氏と元経理2名が協力して、従来の敷地の半分と機械設備を買い取り、チタン製眼鏡のOEM生産を開始した。スポンサーは、江蘇省丹陽の大手眼鏡メーカーの万新光学集団で100%出資。

しかし、2年後の2016年4月に経営譲渡されている。新たな法定代表はR氏で、出資者はR氏個人とR氏が経営する眼鏡会社に変更。このR氏もまた元野尻の社員であった。退職後、奥さんの実家のネジ工場が大儲けして、自ら眼鏡会社を設立。更にその儲けで、1億円を超える出資額であるが、古巣企業を買収してのオーナー経営者に昇り詰めるとは、まさに眼鏡界のチャイナドリーム。野尻の系譜が、中国で野尻OBから野尻OBへとバトンが渡され、続いていたこの不思議な縁に正直驚いている。

ところで、2014年の最初の代表だったO氏にS総経理からヒアリングをしてもらった。社名については、さすが「尻」の字はないが、「新野」とは、野尻へのオマージュだと思いたかった。しかし、O氏からは「当初から旧野尻の機械設備や技術を活用した日本からのOEM受注の会社を目指したので『新野尻』を意識したわけではない。野尻には敵対的ではなかったが、愛着もなかった」とのドライな回答で、私のセンチな感情は打ち砕かれた。とにかく、チタン製眼鏡の生産設備と技術があれば、日本からのOEM受注で儲かるとのしたたかな計算があったのだ。日本人が放棄した野尻はまだ使えると。

かくもその後の上海での野尻を調べていくと、今更ながら本社が破綻しても中国を切り離して存続の道があったかもしれないと思う。中国にはブランド力と代理店網があった。本物のチタン製眼鏡をOEMで受注できる設備も技術もあった。大口OEM先の取引を継続できる可能性もあった。何故拙速に清算まずありきの道をたどったのか、と残念でならない。かつて上海大学嘉定キャンパス内にあった「野尻眼鏡大学」は、中国眼鏡産業発展に23年に亘り多大な貢献をし、輩出した有能な人材が形をかえてその後を引き継いでいることを今回改めて確認することになった。「虎は死して皮を残す」であったと思いたい。

次回は野尻に関わった中国人のアナザーストーリーを掘り起こしてみたいと思います。

福井大学 大橋祐之 (2023年2月)