【日中不易流行】『福井最古の中国大陸進出「満州豆稈パルプ」①』

唐物の能の名作「邯鄲」を金沢で観る機会がありました。登場人物の多さとドラマチックな展開。人生の栄華は粟飯の一炊の夢。人生は夢のように儚いと思えば、「出離生死」(生死の苦を克服)できるとの悟りの境地に、こちらは一睡もできない緩急ある舞台でした。「邯鄲」は河北省邯鄲での「粟飯の一炊の夢」ですが、大豆の豆がら(豆桿)を巡っての壮大な夢物語が、かつて隣の遼寧省開原を舞台に繰り広げられました。戦前戦中の時代に翻弄され、中国大陸旧満州に儚く消えた大プロジェクトの主役が福井の企業であったことはほとんど知られていません。

戦前の絹製品羽二重時代から「繊維王国福井」であり、福井は人絹(レーヨン)輸出では昭和10年(1935)には全国トップでした。中国大陸進出では旧満州に、酒伊繊維工業株式会社*(以下、酒伊繊維)が、満州豆稈パルプ株式会社を設立したのが記録に残る第一号です。先日、福井の古本屋の郷土史コーナーにて「ああ満洲豆桿パルプ」(水野岩男著)という私家版の古本に偶然出会いました。素朴な水彩画の装丁で、鉛筆の書き込みが残され、何とも言えない佇まいに躊躇いなく購入しました。名前は酒伊繊維の社史で知っていたのですが、戦前で地方の一織物会社の初めての海外進出としては、「小さく生んで大きく育てる」の鉄則を超越して、異常と思えるほどスケールが大きく、まさに「大陸への雄飛」であり、謎が多いのです。

満洲豆稈パルプ株式会社の豆稈は、「とうかん」とも「まめがら」とも読み、大豆を収穫した後の外側の殻です。この不用な廃棄物であった豆稈と酒伊繊維を結ぶ糸はなんだったのか。当時の社長酒井伊四郎は、「原糸から織物まで」の一貫生産を目標としていました。事業拡大の中で製織から精錬・染色までの一貫生産は確立したものの、最上流の原糸製造ができなかったことが最大のネックだった中で、敦賀の市井の研究者吹田儒がパルプ製造の研究をしていたのです。そこで、吹田氏を招聘して大豆稈からの人絹用パルプと製紙用パルプの製造技術開発に取り組み、原糸製造の内製化という夢の現実化へ動き出すことになったのでした。そして、どのような縁か満鉄中央試験所の協力も得て、昭和11年(1936)春にようやく実用化に成功しました。当時、人絹糸の原料となるパルプはイタリアからの輸入に依存していました。このパルプは木材からセルロース成分を抽出したものであり、これを従来廃棄していた豆稈(豆殻)から製造することは画期的なことでした。

これを事業化していく中で、突然舞台が福井から満州に転換します。フィールドとプレーヤーが、高校野球からメジャーリーグ級に激変します。時代の強風が吹き、何かが、誰かが福井と満州の縁の糸を結んだのです。結果として、酒伊繊維は昭和12年(1937)9月4日に満洲国政府・満鉄・満洲興業銀行の出資も得て、資本金1000万円(日銀の企業物価指数換算で現在の約90億円)で準国策会社の性格を持つ満州豆稈パルプを設立したのでした(酒伊繊維70%、満州国政府、南満洲鉄道、満洲興業銀行各10%)。満州豆稈パルプは、豆稈の集荷に便利な現在の遼寧省開原の広大な敷地(東西1,500m×南北1,000m約50万坪)に10万坪のパルプ工場を建設し、昭和15年(1940)3月にはパルプ生産を開始。このパルプ工場に苛性ソーダ・塩素を供給したのが満曹開原工場であり、さらには両工場への電力供給のため満洲電業発電所も付設されるという巨大プロジェクトへと変身していきました。   

しかし、豆稈パルプの量産には技術的に未だ解決されていない問題がありました。一方で満州国の紙幣については戦時下、日本からの輸入が難しくなり、紙幣用の紙を漉くためにクラフトパルプ生産が求められ、満洲国政府の命令により人絹パルプから製紙パルプ製造への転換を強いられました。その後の度重なる製紙パルプ増産要請の中、満州国政府より譲渡の要請があり、終戦直前の昭和20年(1945)7月に全株譲渡され、その経営は王子製紙に委託されていきます。具体的な金額は不明ですが、相場の3倍の金額にて譲渡され、終戦直前のタイミングで資産没収を間一髪免れたことで、当時、酒井伊四郎社長は終戦を事前に知っていたのではないかと噂されたそうです。

地方の一繊維会社が、繊維産業の川上から川下までの一貫生産体制確立の夢をもって、大陸に雄飛した心意気は福井人として誇りに思います。終戦後は、進駐してきたソ連兵によって設備はすべて徴用され、工場だけが残りました。日本人社員の撤収引揚の際の想像を絶する苦労については、「ああ満洲豆桿パルプ」で生々しく語られています。著者の水野岩男氏はこの本により、満州で生きた証を後世に伝えたかったのでしょう。「昭和十七年一月十日渡満。十九年十一月十七日阜新市一〇四部隊入営。二十一年七月二十日鞍山市より引揚げ」の鉛筆の書き込みに往時の苦難が偲ばれます。

さて、終戦により潰えた酒伊繊維の中国大陸進出の夢が再び実現するまでには、その後半世紀を要しました。平成6年(1994)と平成7年(1995)に東麗酒伊印染(南通)有限公司と東麗酒伊織布(南通)有限公司が東レ株式会社との合弁にて江蘇省南通に設立されています。この2社は平成12年(2000)に合併し、現在は東麗酒伊織染(南通)有限会社とポリエステル職布染色一貫工場として、繊維都市南通の東レグループの中核工場となっています。大陸への夢を抱いた酒井伊四郎社長の名は、今は「東麗酒伊」となって南通にて引き継がれています。

今回は極めて簡単に満州豆桿パルプについて紹介しましたが、「ああ満洲豆桿パルプ」を含め、関係資料を読み込んでいくと、以下のような色々な謎が出てきました。

  • 地方の一繊維会社であった酒井繊維と国策であった満州進出の結んだ糸は何か?
  • 終戦直前に譲渡したことについて、酒井社長は終戦を知っていたのか?
  • 相場の3倍と言われた譲渡金は、終戦の混乱の中でどうなったのか?

ここら辺の仮説を含めた話は次回以降とします。満州豆稈パルプの福井と旧満州を結ぶ経糸緯糸には、どうも「妖怪」が絡んでいるような気がします。一冊の古い本との出会いが、新たな好奇心を掻き立ててくれたことに感謝します。    

福井大学 大橋祐之 (2024年4月)

*1891年創業、1949年福井の企業の上場第一号、1992年サカイオーベックス株式会社に社名変更、2021年TOBにより非上場化。

「ああ満洲豆桿パルプ」(水野岩男著 昭和61年5月21日発行352ページ限定20冊)

満州豆稈パルプ株式会社工場外観(サカイオーベックスHPより)