【多余的話】『春が来た』

4月3日が月曜日で新年度の行事の多くが始まった。久しぶりに対面や発声がリアルに行われた。

日経の「春秋」では、新社会人へのメッセージとして映画『生きる』の黒澤作品とカズオ・イシグロ脚本の「古風な新作」英国作品を取り上げていた。
ひと昔前の新社会人へのメッセージは、山口瞳や伊集院静が先達として、自己流作法や流儀、酒飲みの自己弁護を語ることが多かった。今時のコラムでは、英国版『生きる・LIVING』から・・・他人の称賛や感謝を求めず、自分がなすべきことをせよ・・・主人公が新入課員に、この先仕事への情熱を失いかけたらこの公園作りを思い出せ、と綴る言葉を抽出していた。容易なことではないが大切な第一歩への明示だと思う。

1924年台湾彰化の生まれの朱實老師の最晩年も容易ではなかったことを息子の朱海慶さんとの電話で教えて貰った。ゼロコロナ解禁直後の上海で三回もの感染症と闘い。東京から香港経由でようやく上海の枕頭に間に合った息子さんと最期の交流ができたことを知り、胸と言葉が詰まった。
朱實(俳名:瞿麦)老師の人物スケッチは司馬遼太郎『街道をゆく・閔のみち』、姿は山田洋二監督『男はつらいよ』の「チョイ役(ご本人の日本語)」で知れる。お別れの会は誕生日の9月30日(1949年台湾から天津への上陸記念日)に上海にて。

もう一人の恩師である山東人の高維先先生のお別れ会には、ボストンで心身のリハビリ中だったため参列できず悔恨の思いを残した。この春、ご令室の蘭子様の通夜とお別れ会で二人分の追悼をさせて頂いた。
1927年生まれの会津人の蘭子様とは東奥日報の友人による奈良ホテルでの取材に陪席して再会できた。学生時代にご自宅で接した明朗闊達さに磨きがかかり、短歌会を継承主宰されていた。編集発行を担われた歌誌『山の辺』は600号を超えると知り、中国の格言の通り「活到老、学到老(いつまでも元気に学ぶ)」を実感した。
快晴の大和路、満開の桜の下で、老師のもとへ旅立つ蘭子夫人のお見送りができた。

朱實老師より一日遅れの1924年10月1日生まれのジミー・カーター元大統領が率いるNGOカーターセンターは、2月18日「病院での追加治療ではなく、終末期を家族と共に自宅で過ごし、ホスピスケアを受ける」との声明を発表した。「ジミー、WHO?」と揶揄され、泡沫候補と目された大統領選に勝ったのち、評価の低いまま退任。
しかし真骨頂は「元」大統領になってからの活動だった。その卑近な例の一つを万国戦争受難者慰霊塔に見る。カーターと笹川良一の連名で、平和祈願の目的とするとある。茨木市の拙宅から10分ほど歩くと丘の上に異様なモニュメントが突然現れる。形状だけでなく、この二人の組み合わせも尋常ではないなあと散歩のたびに感じる。

たまたま今週の日経「私の履歴書」に、ジョージア州知事以来のYKK社のカーター氏との交流が明るい筆致で肯定的に書かれていた。同世代の朱實老師、高蘭子さん、カーター元大統領に通じるのは、その明るさ、陽気暮らしだろうか?三人は笑顔しか思い浮かばない。  

最後に内輪話で恐縮ながら、この春は三方と同世代である実父の33回忌であった。彼岸の時期が命日なのでお寺も賑やかである。
ハードシップ手当対象だった青島駐在事務所で訃報を受け取り、14時間の車中泊をして北京へ。友人宅に泊めてもらい、翌日午後の便で伊丹空港に夕方到着した。空港では中国室長に出迎えて頂いた。二泊三日のセンチメンタルジャーニーは実に長かった。

京都石峰寺での法要のあと、甲子園球場へ移動してセンバツ高校野球を観戦、そして翌日は新歌舞伎座での舟木一夫コンサート。いずれも三年ぶりで春の恒例行事が戻って来たことを実感した。

選挙カーとともに桜前線も通過して、一青窈のハナミズキの季節が来た。

(井上邦久 2023年4月)