【多余的話】『小春の旅』

菩提寺の赤壁合元寺から新住職のもと、4年ぶりの法要を営むとの案内を貰い、山口県経由で生まれ故郷の中津へ向かった。
本州から鉄道で九州へ移動する時、小倉は必ず通る要の駅となる。今回も山陽新幹線から日豊(日向・豊前)本線への乗換の機会を利用して、小倉で短い寄り道をした。

駅から歩いてすぐの鍛治町に森鴎外が住んだ官舎跡がある。屋敷内に厩舎があり鴎外も騎馬通勤したようだ。ドイツ留学中の医学校の時間割に朝一番の科目として「騎馬」とある。戦場や自動車が普及する前は緊急往診のため、医者は騎馬習得が必須であったと医学史講座で教わった。(今期の医学史講座は「疫病に向き合う 森鴎外の場合」。なぜ紙幣に鴎外が採用されないか?という軽い設問もあり。)
1889年、森林太郎は、近衛師団軍医部長兼軍医学校長から第十二師団軍医部長を拝命し小倉に赴任している。この人事が左遷であるとか、大陸有事の備え含みの栄転であるとか諸説あるようだが、再婚したばかりの19歳下「美術品のような(鴎外の手紙)」志げ夫人と京都で道草をして小倉へ赴いているようで、難しく考える野暮は止めた。(志げ夫人については、『すばる6月号』掲載の朝井まかて氏の講演録に詳しい)

小倉駅ビルに北九州大学サテライトキャンパスがある。大学所属の中華商務研究センター長の王効平教授からのお誘いで、中国駐在からの帰任後と退職後に地元の経営者や研究者に体験談を報告させて貰ったことがある。また王効平先生も華人研で講演をされた御縁もあり、TAS(華人研)創設者の馬場正修氏の蔵書の受け入れ保管をお願いし、無理を聞いて貰った。今回、久しぶりにサテライト教室の一角に鎮座する「馬場文庫」に対面し、数年ぶりに王効平先生と対面歓談もできた。早逝した馬場氏の遺志を改めて思い起こすとともに、その後も多くの方々の力添えによって、TAS(華人研)(http://www.kajinken.jp/)が継続していることに感謝した。

観光案内所に寄り、若松区にある火野葦平旧居「河伯洞」記念館がリニューアルされ葦平の甥にあたる中村哲医師を紹介するコーナーも新設されたと知った。今回は訪ねることができなかったが、次回の寄り道の際は「花と龍」の一族が棲んだ旧居の空気を吸ってみたい。
火野正平なら「人生下り坂、最高」の自転車番組で多くの人が知っているが、火野葦平に反応する人は多くないようだ。京都四条烏丸の大型書店で何でも知っている風情の売場主任に訊ねたら、虚を衝かれた顔でパソコンへ走った。日中戦争に従軍した火野葦平が『糞尿譚』で芥川賞を陣中授賞し、『麦と兵隊』『土の兵隊』『花と兵隊』三部作がベストセラーになった頃の知名度は正平さんを凌駕するのは勿論、もしかすると翔平さん並みのブームだったかも知れない。
映画、歌謡曲、浪曲、ラジオドラマ・・・様々な形態で宣伝消費され、英語、中国語をはじめ多くの翻訳がなされたという。火野葦平は敗戦後に公職追放となり、一定の復活はしたものの最期は不本意なこととなった。持ち上げたあとで手の平を返すことを得意技とする日本社会の犠牲者だったかも知れない。海外での評判も良く、国内でも再評価されているらしい。これは喜ぶべきことか?分からない。

「渓山天下に類なき 山国川を背において 九州東部の要路たる」と戦前の中津町立南部小学校の旧校歌がおぼろげに耳に残っている。父祖の人達はこの漢語過多で行進曲のような校歌で育ち、それに誇りを持っていた。大人たちは「福沢の教えの鈴の響く町」で始まる敗戦後の新校歌を軟弱だと笑っていた。しかし、中津は九州東部の要路だと威張っても、百貨店はエスカレーターのある小倉の井筒屋、プロ野球は福岡の平和台球場に行くしかなかったのが実情だった。
小学校の同級生が菩提寺の檀家総代になっていて、お寺の庫裏で半世紀以上ぶりの再会が実現。お互いに人生いろいろが有っただろうけど、難しい身の上話をする野暮は次の機会に回した。
小学4年生の三学期のある日突然に中津の町から消えた、それも手元スイッチの操作のような形ではなく、電灯コードがコンセントから引っこ抜かれたような消え方をした。中津祇園祭の町総代でもある幼馴染は半世紀ぶりに現れた男を助手席に乗せ、旧市街や生家跡を巡って、少しずつ町での記憶を甦らせてくれた。同級生の名前はフルネームで甦ってきて、しかもその多くが女子生徒の姓名だったので大笑いした。

秋の寺幼なじみが総代に(拙)

「次には泊まっておくれ」という温かい言葉と豊前の地元由来のお手製土産をリュックに詰めて、小春の旅を終えた。

(井上邦久 2023年12月)