【中国あれこれ】『第二章 現代中国への道』

南京の夏の暑さは過去に経験したことのないものだった。私は他の留学生の友人と三人で明朝時代(1382年)に建てられた時を知らせる「鼓楼」の丘を歩いていた。上はタンクトップ、下は持っていたジーンズを膝上で切り取って短パンにして、木の下駄を履いていた。当時の中国から見れば、その姿は異様に映ったに違いない。 一緒にいたドイツ人の留学生は現地で買った白い開襟シャツにカーキー色の綿のズボンを履き、赤い星のついた人民帽を被っていた。正に当時の中国人の定番である。ただ西洋人が着ている点だけが違っていた。私とこのドイツ人だけでも十分に目立ったが、もう一人の日本人留学生はパーマをかけた長髪、日本では珍しくもないTシャツを着ていたが、そのTシャツには大きなローリングストーンズ「赤い舌」がプリントされていた。鼓楼公園の木陰で少しの涼を取っていた中国人は我々三人をまるで宇宙人でも見たかのような目でじっと見つめた。

「ピンバーン、ピンバーン(氷棒、氷棒)」とアイス キャンディを売る声が聞こえた。子供の頃、微かに覚えている自転車で売りに来るアイス キャンディ屋を思い出した。その自転車にも綿状のもので保冷機能を施した木の箱が載せられていた。私は覚えたての中国語で「一本ください」と呼び止めた。ドイツ人と同じ格好をした青年だった。

そのアイス キャンディ屋の青年は私を見るなり突然、「日本人の方ですか」と流暢な日本語で尋ねてきた。
「はい、そうです」
「私は毎日、NHKの短波放送で日本語を勉強しています。ちょっと日本語で話してもよろしいですか」
「はい。日本語上手いですね」
「とんでもございません。まだまだ勉強がたりません。しかし、日本語が好きです。これは差し上げます」と言ってアイスキャンディを一本渡された。「話して頂いた御礼です」と。
彼は一生懸命に学んだ日本語を話した。ところどころ、言い回しを私に確認しながら、それでも立派な日本語だった。日本語を聞いて覚えても話す相手がおらず、彼にとって初めての日本人との会話であった。
気が付くと、私と彼を取り巻くように数メートルの距離を空けて大勢の中国人に囲まれていた。留学生の友人二人はいつの間にかその場からちょっと離れたところでその様子を見物している。私は笑顔のない中国人達の目に暑さを忘れていたが、貰ったアイスキャンディも口にすることを忘れ、それは融けて形をなくしていた。それでも楽しそうに青年は日本語を話し続けた。

誰かが私の膝の後ろを何かで突いた。振り返ると一人の初老の中国人が黒い雨傘で私の膝の後ろを突いていた。そして、その場にいた者を代表するかのように何かを話した。聞き取れない。するとその青年が「あなたは何故そのようなズボンを履いているのですか」とニコニコと訳してくれた。「南京は暑いので持ってきたズボンを切りました」と応えると、青年がまた中国語に訳してその初老の男に伝えた。その男は振り返るとそこにいた中国人全員に聞こえるように、それを伝えた。「おー」そこにいた中国人が声を上げた。そして、夫々に何やら大きな声で会話が始まった。
青年が笑って言った。「皆さんは、貴方が何故こんな格好をしているのか夫々に意見を戦わせていたのです。暑いからきっと切ったのだと言った人が喜んでいます」

こうした訳の分からない経験をして、私は留学を終えた。

いすゞ自動車の入社試験最終面接の時だった。面接会場に入る前に入室の注意事項が人事部の担当者から説明があり、順番を待った。一人約20分程度の面接だった。部屋に入り、中央の椅子まで進み、氏名と出身大学を名乗り、「どうぞ」と言われたら着席するようにとの注意事項であったが、私が部屋に入ると席に辿り着く前に「あれ、君、学生服はどうしたの」と突然の質問にあった。中央に置かれた椅子に進みながら、「最終面接と伺いスーツを買ってきました」と答えるしかなかった。私はそれまでの面接を全て学生服で受けていた。確かに珍しかったが、スーツを買う金がなかっただけなのだ。
「そうか、残念だったな。久しぶりに学生服が見たかったな。座って」と言われ座ってしまった。そうだ、名前も大学も言っていない、頭が真っ白になるのを感じながら再び立ち上がり、「幅舘章と申します、、、、」と言いかけた途端、中心に座っていた副社長が言った。「分かっているからいいよ、座って」と言ながら次を続けた。
「君はウチに入社したら何がしたいかね」
「はい、中国のゴビ砂漠にいすゞのトラックを走らせたいです」もうパニックであった。なんと馬鹿なことを言ってしまったのかと。
そこにいた役員全員が笑った。「砂漠にトラックか、良いね」
副社長が言った「はい、ご苦労さん。ありがとう」

私の面接は3分で終わった。面接会場から出ようとした時、端の席にいた人事の役員が聞いた。「幅舘君、身体大きいね。健康だよね」と。

それから数年後、砂漠専用車開発実験の為に私はタクラマカン砂漠に立っていた。砂漠の暑さがあの南京の夏を思い出させた。あの青年もきっと日本で働いているに違いないと思った。

1980年代、中国経済は近代化に向けてギアを上げた。それから40余年、中国の変貌を見てきたがどんなに発展しても、中国の根底に流れるものは変わっていない。

(幅舘章 2023年6月)