立秋-恭王府(2017年8月7日 晴れのち曇り 最高気温 35℃、最低気温 24℃)
今年は中国人民解放軍設立90周年で、7月30日(土)、内蒙古の朱日和演習場で大規模な閲兵式が行われ、その模様は中国全土に生中継されました。軍服を着た習近平主席は「軍隊は、党が軍隊を絶対に指導する根本的原則を堅持し、党の指示を永遠に聞き、(中略)、党がそこを指させば、そこを打ち砕け」と演説しました。この発言を見ても分かるとおり、中国の軍隊は、「党が指導する軍隊」なのです。日本の新聞では「中国軍」といった標記をするところがありますが、これでは、あたかも日本人がイメージする「国軍」が中国にあるような誤解を与える恐れがあります。クーラーをかけた涼しい部屋のなかで、暑い最中に近代的な鋼鉄の兵器に囲まれながら直立不動で立っている兵士たちを見ながら、この根本的な違いに改めて気づき、今さらながら愕然としました。
【恭王府の正門である一宮門の前の巨大な石獅子】
さて、今回は、前回取り上げました“什刹海(shi cha hai)”の周辺にある名所旧跡の一つ、“恭王府”を紹介します。
“恭王府”は、清朝後期の皇子であり、洋務運動の主導者でもあった愛新覚羅 奕訢(Yi Xinエキ キン)の屋敷跡であり、今は観光地として整備されています。今回は、冒頭から固い話で始まり、続いて歴史上の人物の話となり、退屈かもしれませんが、辛抱してお付き合いいただければと思います。
清朝では“太子密建”という制度がありました。これは、血で血を洗う後継者争いを経験した第五代雍正帝が確立したものです。簡単に言いますと、皇帝が誰にも見せないように、次期皇帝の名前を紙に書き、木の箱に入れ、紫禁城(故宮)の指定の場所に隠しておき、皇帝が崩御すると、重臣の立会いのもとで、その箱を取り出し、そのとき、初めて、後継者が分かるというものです。この制度によって、後継者争いや早くに太子を指名した場合の皇帝派と太子派の争いを避けることができ、また、皇子は皇帝に認められようと自ら研鑽をつむことになります。
【恭王府葆光堂内の恭親王の展示コーナー。左側、見学者たちが見つめているのが恭親王の顔写真】
1833年1月11日、奕訢(Yi Xin エキ キン)は、清朝第八代皇帝である道光帝の六男として生まれました。その2年前に、彼の兄であり、ライバルとなった四男奕詝(Yi Ning エキ チョ)が生まれています。歴史の皮肉というのでしょうか、奕詝(エキ チョ)が10歳のとき、生母である孝全皇后が亡くなり、奕訢(エキ キン)の生母である静貴妃に引き取られ、二人は本当の兄弟同然に育てられました。兄弟であり、ライバルである二人は、兄はおっとり型、弟は才気煥発タイプでした。そのためか、後継者レースでは、最初弟がリードしていたものが、兄の教師の計略もあり、途中で逆転したと言われています。
1846年、奕訢(エキ キン)が13歳のとき、道光帝は秘密の遺言状を書きました。朱(あか)い字で書かれた詔(みことのり)は現存しており、複製が恭王府の銀安殿に展示されています。最初の行に、
「皇六子奕訢を親王に封じる」
と書いたうえで、第二行に、
「皇四子奕詝を皇太子に立てる」
と漢字と満州語でしたためています。まさに、道光帝のどちらにすべきか迷った苦悩と選ばなかった六男への哀れみがにじみ出ているようです。
【二宮門にある獅子が彫られた門墩(men dun。門の敷居、柱、扉を支えるための建築部材であり、装飾が施され、主人の身分を表している)と行き交う人々を撮っていましたら、子供が振り向いてくれました】
1850年1月、道光帝が崩御します。死の前日、道光帝は重臣たちに秘密の遺言状を開けさせました。この詔により、兄が咸豊帝として即位し、弟は皇帝となった兄から「自分に対して恭しくしろ」という意味が込められた「恭」の字を拝領し、恭親王となりました。この時から、彼の苦難の人生が始まったと言ってよく、家柄が最高で、仕事も出来た彼は、出世をしては失脚し、復活しては失脚し、それがなんと4回繰り返されるのです。
【何があるのかな?(錫晋斎にて)】
この詳細は煩雑ですので省略します。ただし、彼は、1861年、兄である咸豊帝の崩御を契機とする東太后と西太后による宮廷内クーデターに協力して以来、1898年65歳で亡くなるまでのほとんどの期間、女帝として有名な西太后に仕え、その間、3回失脚したことだけは記しておかねばなりませ
【花園エリアの西側は小さな池が掘られ、湖心亭が建っています。蓮の花が咲く時期となり、大きな緑を茂らせています】
簡単に恭王府を紹介します。恭王府は、南北の長さ330m、東西の幅180m、敷地面積約6.1万㎡、うち、屋敷部分3.22万㎡、花園部分2.88万㎡。屋敷部分の中央に建てられている嘉楽堂、銀安殿などの主要建物は緑色の瑠璃瓦が使われ、その他は一般的な瓦が敷かれています。紫禁城の全ての建物が黄金色の瑠璃瓦で覆われていることに比べてみても、皇帝と親王といえども臣下との身分の格差が歴然と表れています。
【花園エリアの東側にある「怡神所」という名前の京劇を鑑賞する劇場です。恭親王が客を接待した場所ともいわれ、面積685㎡、200名収容可能です。現在、この劇場は、団体客しか入場を許されませんが、ちょうど一団体の入場があり、門が開かれた時に、どさくさにまぎれて、入り口から写真を撮りました】
【行った日が土曜日だったためか、沢山の団体旅行客がいました。こちらは、100名ほどの団体で、ガイドの話を聞いていると山東省から来たらしいです。昨年まで、地方の団体さんをあまり多く見かけませんでしたが、今の活況振りを目の当たりにして、中国の景気回復、或いは地方経済の成長を半信半疑ながら実感しました】
恭親王と兄である咸豊帝、そして、兄の妃である西太后とのやりとりを見るにつけ、中国のピラミッド型の官僚機構のなかで、頂点に立つトップとそれを支えるナンバー2との関係、特に、ナンバー2の立ち位置の難しさを感じます。これまで中国では、トップは、その権能の全てを手中に収めているとはいえ、最も貴いものとしてカリスマ性が一番に求められ、実務はナンバー2以下が行うことが一般的でした。そのため、実務に長けたナンバー2以下に権力が集中しないように、トップであるカリスマ的政治家は、彼らを失脚させたり、復活させたり、ひどい時には殺したりして、調整を行ったのです。これは、中国政治の常道とも言われ、恭親王の4回に亘る失脚は、近代史における毛沢東と周恩来との関係、更には、毛沢東と数度の失脚を受けた鄧小平との関係を思い起こさせます。
【花園エリアに築かれた小山には洞窟があり、そのなかに、乾隆帝が書いたという“福”の字の碑があります。この“福”の字は、恭王府の見どころとなっていて、関連のお土産も沢山売られています】
同時に思い至るのは、沢山の肩書を身にまとい、カリスマ性を強めようとする現在のトップとナンバー2の実務派政治家との関係です。今後、この関係をどのように調整するのか、これまで繰り返されてきた中国政治の常道が採用されるのか、興味は尽きません。
【お母さん、大丈夫?】
文・写真=北京事務所 谷崎 秀樹
★本コラムについてはこちらから→【新コラム・北京の二十四節気】-空竹-
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