躍進期である2000年代、自動車産業に限らず全ての産業において中国は先進国家に向けた改革の階段を全速力で駆け上がり始めた。
今や世界最大の携帯電話市場となった中国、生活アイテムのリモコンのように携帯電話は無くてはならない存在となった。電話機能よりも生活に必要な機能が全て携帯電話によって賄われる社会が出来た。かつて、1990年代の中国では、家庭用固定電話を申し込んでも設置まで時間がかかり、加入費も高額だった。「電話を引くこと」は一種のステータスであり、誰でも直ぐに持てるものではなかった。固定電話は便利な生活インフラというより、限定された階級層の設備だった。その背景にはインフラ整備の遅れがあった。広大な国土を有し、都市と農村の格差が大きかった中国では、全国に固定電話線を張り巡らせるより、携帯電話網を一気に整備する方が効率的だったのである。全ての技術発展が急伸した2000年代、都市部で出稼ぎ労働者、個人商店、営業職、物流業者などが急増し、「家の電話」より「個人が持ち歩ける電話」の需要が高まり、中国社会は、固定電話が普及する時代を経ず、スマホが生活実態に合致する時代になった。
私はこの5年、現金を所持したことがない。今の人民元紙幣の図柄がどのようなものであるかもよく分からない。全てスマホでの決済である。法的には現金での売買に制限することを禁じているが、中には「現金お断り」とする店も出ている。農村から来た老婆が野菜や果物を道端で売っている様子をよく目にするが、基本的にはスマホ決済を求める。タクシーに乗って100元札を出すと釣銭がないと断られるという。スマホの用途は日本よりも遥かに多い。基本決済は全てスマホとなったことで、クレジットカード社会は広がらず、いきなりスマホによるQRコード決済が普及したのである。日本はすでに固定電話、銀行、クレジットカード、コンビニATM、交通ICなどの既存インフラが高水準で整っていたため、スマホはそれらを補完する役割だったのに対し、中国は、既存インフラが十分に整う前にスマホ時代を迎えたため、スマホが一気に社会インフラの中心になった。
中国で携帯電話が普及し始めた1990年代後半、それらは欧米の機種が市場の大半を占めた。モトローラとノキアだった。この頃はまだ富裕層やビジネスマンのステータス品であったが、2000年に入ると中国ユーザーが急増した。2010年代Huawei、Xiaomi、OPPO、vivoなど現在知られる中国ブランドメーカーの先進技術を駆使した携帯電話が次々と安価で市場に登場する。かつての欧州機種は市場を失った。需要は高まり市場は急拡大した。
私が初めてスマホを手にしたのも中国だった。iPhoneの最初の機種だった。画面を指で左右上下に動かすことで操作する「未来」が現実となってそこにあった。現在でも恐らくスマホの機能を最大限に活用できていないが、当時のアナログ人間はこの「未来物」に戸惑った。
中国が開発したスマホブランドが市場に登場すると、スマホは高所得者向けの端末ではなく、一般消費者が買える生活道具になっていった。
中国政府はスマホを軸に産業と社会インフラを多角化する政策を打ち出した。それは通信網、電子部品、端末製造、アプリサービス、電子決済を一体の産業基盤として整備し、結果としてスマホを中心とする巨大な産業生態系を形成した。これは単なる携帯電話産業の発展ではなく、製造業、金融、物流、小売、行政サービスまでを巻き込んだ社会インフラの多角化であった。
最初の北京駐在時代、東京本社に国際電話をかける時の注意事項があった。
『事前に要点をメモにして通話時間を短くすること』
国際電話をかけるには準備が必要だった。それだけ通話料金は高かった。一通話で日本円にして数千円にもなった。ひと月に一回、東京の両親に元気な声を聞かせたいと当時友誼賓館に住んでいた私も国際電話は時間を気にした。
ある月のことだった。事務所の電話代金が通常の平均を異常に大きく上回っていた。駐在員にヒアリングしたが毎月の業務以上に国際電話をかけた形跡は見当たらなかった。当時、北京飯店に事務所を構えていたが、仕方がなくホテルに通話記録を確認した。その月、毎週日曜日に日本との通話記録が複数残っていた。中国人スタッフを入れても15人程度の事務所だった。全員に日本と通話した人間がいるかを確認した。
「最近、事務所から日本に電話連絡した人はいますか」
皆していないと言う。正直に言ってくださいと促したが名乗り出る者はいなかった。所長に呼ばれた。
「ハバ、その日本の番号に電話して事情を説明して誰がかけたか確認しろ」
翌日、私は中国人のプライドを考え、一人一人個別に再度確認した。
「これから、この日本の通話記録の番号に電話します」
日本語が一番巧いスタッフLの顔色が変わった。
「すみません。私が日本に電話しました」と言って泣き崩れた。日本留学準備の為に日本の保証人と連絡を取っていたとのことだった。通話料金は彼の月給の何倍もの金額になっていた。
当時の中国人スタッフは外国企業服務公司(通称「外企」)との派遣契約による採用が義務付けられていた。事務所で不都合な事象を起こせば、その人間は派遣会社に処分を委ねることになる。外企は派遣社員に厳しかった。派遣社員が自己都合で辞める場合、派遣先日本企業の同意書が必要だった。それがなければ辞めることは出来ない。当然のことながら海外留学は出来ないことになる。私は所長に経緯を報告した。
「許してやってもらえませんか。外企に言えば彼は解雇されます。留学の為にビザ申請をしなければなりませんが、解雇になればビザは下りないと思います。彼ほど日本語が出来れば日本に行きたい気持ちは分かります」
「分かった。但し、日本行きが決定するまで仕事はちゃんとやらせろよ。もしLが浮ついた様子をみせたら外企に退職同意書は出さんぞ」
半年後、Lは日本に留学した。
「幅舘さん、ありがとうございました。私は岡山に行きます。帰国されたら必ず連絡ください」
中国本土では、2014年頃からLINEは通常の通信環境では使用できない。日本では日常的な連絡手段であるLINEも、中国ではアクセス制限の対象となり、代わってWeChat(微信)が生活インフラとしてその機能を持つことになる。今やWeChatは連絡手段にとどまらず、決済、買い物、行政手続きまでを含む生活インフラとして定着しており、利用者数でもLINEを大きく上回っている。中国の生活においてWeChatが無ければ生活も仕事も出来ない絶対必需品になった。これもスマホという「最先端技術通信機」が開発されず、政府の多角化政策が無ければ成し得てはいなかったはずである。中国社会は「スマホを持つ社会」から「スマホなしでは生活しにくい社会」へと移行した。
その後、Lとは時々連絡をとった。留学を終え日本で就職し日中ビジネスで長年活躍した。そして、数年前に定年したと連絡があった。それは無償のWeChatからだった。
幅舘 章(2026年8月)
