【日中不易流行】「魯迅『藤野先生』と福井⑤― 秘話:時代を超えたもう一つの『人間愛』―」 

 これまで本エッセイにおいて、魯迅(本名:周樹人)と藤野厳九郎の師弟愛・人間愛と、それがやがて藤野先生の郷里である福井へと連なる深い縁について様々な角度から書いてきました。時を経ても今なお語り継がれているこの美しい師弟愛・人間愛は、今や単なる一文豪の思い出話に留まらず、日中両国の相互理解や民間交流を支える揺るぎない精神的基盤となっています。今回は、「魯迅と福井」ネタの締めくくりとして、二人の物語が昭和の激動の時代を経て、その後どのような展開となったのか。とっておきの「秘話」とその陰で大きな役割を果たしたもう一人の福井人についてご紹介したいと思います。
 昭和57年9月19日、日中関係および中台関係を大きく揺るがす衝撃的なニュースが日本中を駆け巡りました。魯迅の孫であり、当時日本へ留学中であった周令飛氏(魯迅の一人息子・周海嬰の長男)が、台湾出身の女子留学生・張純華氏と恋に落ち、周囲の反対や当局の追跡を逃れて成田空港から香港経由で台湾へ渡り、結婚を宣言したのです。いわゆる「周令飛台湾事件」あるいは「周令飛台湾『駆け落ち』事件」と呼ばれる事件でした。朝日新聞(昭和57年9月19日 朝刊)では、「魯迅の孫、台湾へ」、「日本留学中に台湾女性と恋、結婚のため渡台」などの見出しで速報され、他の主要全国紙でも大々的に報道されました。
 当時、中台関係が極めて緊迫していた中で、この事件は国際的な話題となりました。中国国民の精神的支柱であり「大文豪」とまで称された魯迅の直系子孫が、なんと留学先の日本から当時敵対する台湾へ移住するという決断は、双方の政治当局にとって極めてセンセーショナルであり、政治問題へと発展しかねない大事件だったのです。
 さて、現在この事件を知っている中国通の方はどれくらいいらっしゃるでしょうか。亡命事件と言うと、ソ連のベレンコ中尉によるMiG-25戦闘機亡命事件(昭和51年9月)はハッキリと覚えていますが、この「周令飛事件」については、当時社会人1年生で新聞を読んでいたはずの私も全く記憶にありませんでした。最近、山本正雄氏の著書『藤野先生と魯迅の思想と生涯 ~福井発の「師弟愛」を日中友好の絆に~』(平成18年)を読んで、初めて知った次第です。魯迅が仙台留学を終えて帰国したのも、周令飛氏が台湾に渡ったのも共に29歳前後という若さでしたが、いずれにしても、その勇気あるとも無鉄砲とも言える決断には驚かされます。「愛はすべてを乗り越える。いわんや国境をや」との思いだったのでしょうか。
 その本の中に、「まさに秘話『藤野先生と魯迅 私の中国秘話』初公開」という部分があります。これは、昭和58年に青園謙三郎氏が内々にまとめた手記『藤野先生と魯迅 私の中国秘話』を公式に初公開したものです。山本正雄氏は平成16年頃、県立図書館の郷土コーナーで薄っぺらな24ページのガリ版刷りの小冊子を偶然見つけ、パラパラと読んでいるうちに内容の重要さに驚き、身の幸運を神に感謝したそうです。これは、青園氏の死後、奥様より県立図書館に寄贈された資料の一部でした。青園氏による「秘話」は戯曲形式で進み、最初の口上には「『事実は小説より奇なり』という。今日書く話はまだまだ公表をはばかられる秘話であるが、他言しないで死ぬのも『ちょっと淋しい』気がする」と複雑な心情の吐露がありました。山本氏も青園氏のその悩ましさをくみ取り、「もう時効」と判断して、自著で公表したのでした。
 周囲からの圧力と激しい批難に晒され、日本国内で孤立無援の苦境に立たされていた周令飛氏。そのプレッシャーの中で彼を陰で支えた人物こそが、福井の地で郷土史家・文化人として活動し、福井テレビ社長などを歴任した青園謙三郎氏(大正6年~平成5年)でした。青園氏は足羽山の藤野厳九郎碑やあわら市の記念碑建立に尽力し、著書『かくれた郷土の人物:魯迅の心の師・藤野厳九郎/天下の奇術師・松旭斎天一』(昭和47年)を取りまとめるなど顕彰運動を主導していました。また、記念碑揮毫の件で魯迅のご遺族(周海嬰氏ら)と家族ぐるみの親交を結んでおり、若き周令飛氏にとっても「日本における父親がわり」として身の回りの世話を焼く存在だったのです。
 手記『藤野先生と魯迅 私の中国秘話』には、この緊張に満ちた渡航劇の裏側で青園氏が果たした温かいエピソードが生々しく描かれています。
 昭和54年10月に、青園氏があわら市に記念碑建立のための揮毫を周海嬰氏へ依頼した際に息子の周令飛氏に初めて会ったこと。昭和55年10月、日本に留学後の周令飛氏が張純華氏(台湾人実業家 張進福の娘)を突然連れてきて福井の青園宅に宿泊。その後、張純華氏は、北京の学生(周令飛)と馴れ馴れしいとの密告により一時は帰国。その後張純華氏はもう周令飛氏と会わない約束で再来日し、半年後東京の地下鉄出口で周令飛氏と運命の「再会」を果たしたこと。「テレビの勉強がしたい」という周令飛氏に福井テレビの縁故でフジテレビのアルバイトを紹介したこと。張純華氏が父親に「周令飛以外とは結婚しない」と言い放って困らせたこと。そして昭和57年9月、二人の結婚宣言と台湾渡航による激震。関係者への謝罪。周令飛氏から届いたお礼と詫びの毛筆の手紙。台湾での結婚式への青園夫妻の出席。さらには「幻に終わった両家両親の顔合わせ作戦」まで…。
 青園氏は政治的リスクや自身への批判を一切省みることなく、二人の情愛と未来を全面的に支持しました。個々のエピソードからは、政治体制を超越した真の「人間愛」を感じずにはいられません。昭和57年当時、中国と台湾はまだ冷戦状態であり、不接触・不談判・不妥協の「三不政策」時代でした。また、周令飛氏は中国共産党員、人民解放軍出身でもありました。そのため、台湾への渡航は中国側から「叛逃(裏切り)」とみなされかねない命懸けの決断でした。青園氏が彼らを支援したことにより、中国当局からの怒りを買い、せっかく築きあげた魯迅遺族との交流や日中友好事業が全て吹き飛ぶリスクがあったのです。
 魯迅がかつて仙台の地で、異国で孤立しがちであった自分に分け隔てなく温かい手を差し伸べてくれた藤野厳九郎先生に救われたように、その孫である周令飛氏もまた、人生最大の危機において福井出身の青園謙三郎氏という温かい手によって救われたのです。国家や政治という大きな波に翻弄されながらも、困窮した異国の若者をただ一人の人間として温かく包み込み、身を挺して守り抜く。周令飛氏の脱出劇と青園氏の献身は、かつて仙台で生まれた「人間愛」が、一世紀以上の時を超えて再び福井ゆかりの人物の手によって再現された、奇跡のようなドラマであったと言えます。
 激動の末に台湾へ渡った周令飛氏ですが、福井の人々と青園氏に対する深い感謝を忘れることはありませんでした。やがて中台関係に和解の兆しが見え始めると、周令飛氏は「魯迅文化基金会」の会長として活発に活動するようになります。その後も福井県(福井市、勝山市、あわら市など)を度々訪れ、勝山城博物館(写真参照)に清代の貴重な伝統刺繍コレクションを寄贈するなど、地域の文化振興と日中友好に大きく貢献しました。青園氏が手渡した温かい友情と信頼のバトンは、世代を超えてしっかりと受け継がれ、今なお福井と中国・台湾を結ぶ揺るぎない架け橋として生き続けているのです。
 百余年前、一人の中国人留学生と一人の福井出身の医学教師が出会ったことから始まった「誠実さ」のバトンリレー。物語は単なる歴史の一コマに留まらず、その子孫や次の世代の福井人たちを巻き込みながら、壮大なドラマとして紡がれていました。国境や政治の壁がいかに高くそびえ立とうとも、根底にある「人を想う心」や「誠実な思い」こそが、すべての壁を乗り越える力を与えてくれます。周令飛氏と青園謙三郎氏の「秘話」は、私たちが日中交流の未来や人間同士の繋がりを考える上で、極めて深い示唆と大きな希望を与えてくれているのではないでしょうか。

周令飛コレクション
勝山城博物館は
「福井県立恐竜博物館」の近くです
清代の民間伝統刺繍佩飾品のコレクション

大橋 祐之(2026年9月)