【多余的話】『北京での長い眠り』

 ・・・ハーンは『怪談』と『日本一つの試論』の校正をおえた直後、1904年(明治37年)の九月二六日、東京大久保の自宅で心臓発作のために急逝しました。行年五四歳、法名「正覚院浄華八雲居士」、多年の功績で従五位に叙せられ、遺骨は東京雑司ヶ谷墓地に葬られました。・・・『怪談』岩波文庫版訳者の平井呈一による解説より。『日本 一つの試論』はハーンの日本研究の卒業論文といわれる世界的名著 ”Japan: an Attempt at Interpretation”。
 NHK朝の連続ドラマ「ばけばけ」が、松江を舞台にした昨年末に佳境を迎え、残る三ヶ月を熊本・東京での生活、老と病との葛藤を経て完結した。並行して岩波文庫『怪談・虫の研究』を読み終えた。訳者の平井呈一については神奈川近代文学館での小さな特別展示で親しみを増し、恒文社版『全訳小泉八雲作品集』全十二巻(第12巻は小泉節子『思い出の記』と小泉一雄『父「八雲」を憶う』であり第11巻までが平井呈一による全訳と解説)を茨木市立図書館から借り出して、拾い読みをしている。年内には平井呈一と八雲そして出版を支援した恒文社池田恒雄について少しだけでも咀嚼したい。出来ることなら、新潟県魚沼市の池田記念博物館へ足を伸ばしたい。
 2026年のTAS(華人研)は、中国金融経済専門家や中国語教育者(4月からNHKラジオ「まいにち中国語」担当)に続いて、3月は文楽協会の制作部での知見体験が豊富な後藤静夫氏の登壇を頂いて「キャンセル待ち」という無粋な対応をお願いするほどの盛会になった。(この項、改善要望も多かったので会場手配の再検討をしていた処、6月にようやく、同じ大阪駅前第2ビル6階の第2研修室を借り、広いスペースでの開催を試みる予定です)。
 淡路、浪華で継承発達した人形芝居は、言葉は関西系で演目舞台も上方や西よりの土地が多い。東京の国立劇場の再建が見通せない現在、大阪日本橋の国立文楽劇場が唯一の常設の劇場である。
 大阪に基盤を置く文楽は崑劇(2001)に続き、歌舞伎(2005)に先駆けて2003年にユネスコ世界無形文化遺産に登録されている。人間国宝も輩出している100名足らずの団体は、宝物のような存在でありながら、文楽劇場へ足を運ぶ人が殺到しないので、比較的緩やかに当日券席で観ることができる。
 後藤氏の新著『人形浄瑠璃文楽における伝承と現在――製作者の視座から』(琥珀書房)が発行され、製本ほやほやの本を琥珀書房の山本捷馬社長が自ら運び込み、講演時供覧に間に合わせて頂いた。
「制作者」の立場から書かれた大部の本には、後藤氏ならではの取って置きの文章が続く、中でも第4部「文楽の技芸員に聞く」は特筆すべき内容で、吉田文雀師からの聞き取り記録「人形の役作りと首割り(かしらわり)」は再現が難しい貴重な宝物だろう。
 本の帯には、「1970年より34年間、一貫して文楽の『制作』を担った著者による唯一無二の論考と記録」と大書されている。帯書きの内容については手に取って個々に判断していただくとして、米国野球界で成功した日本人選手を表現することの多い「唯一無二」は将来また再現される可能性が残るが、文楽の世界において、江戸・明治を繋いできた名人上手の承継者と接しながら、社会へ発信することの少ない人たちの「耳と口」の代わりを務めて、柔軟に対応してきた後藤氏の代役は今後とも僅少或いは希少であろう。
 時間の制約もあり、参会者からの質疑応答の楽しみを確保する為、話し尽くせない後藤氏の「まだまだ」と、心を鬼にして「そろそろ」を伝える進行役のせめぎ合いの時間を長く感じた。長年親しい関係の講師との合作の場合、お互いの遠慮のなさや我儘が綾なすことが時として生じるが、或る程度までは肚を括っている。セミナーは、講師の実力・尽力と忍耐力のお陰で無事にお開きとなった。
 散会のあと、琥珀書房の山本社長から後藤氏の新著を購入した。著作者と発行者の前で入手した僥倖を大切にしたいと思った。その矢先に、山本さんからオマケとして、「こはく文庫」シリーズの『絣の着物』壷井栄戦争末期短編集をもらった。このオマケがとんでもない宝物であることが徐々に解って、身震いすることになった。
 壷井栄が戦争末期の東京で執筆し、戦火を避けて空輸された原稿は1945年6月10日に北平(北京)で印刷・発行された。その経緯は十数編の小説に添えられた秦剛氏による解説に詳しい。
 物資の枯渇と思想統制により風前の灯になっていた出版事業が「毎日新聞北京支社」内の「月刊毎日社」では消滅せず、「新民印書館(後の新華書店)」で印刷された。しかし短編集は本土に届くことはなく、戦後も著者の壷井栄が手にすることが無かった。
 石川巧氏の発掘や秦剛氏の地道な調査を経て、北京大学図書館で二冊の『絣の着物』の原本が発見・発掘され、八十年の時間を経て、「山本捷馬氏のご厚意とご協力により」(秦剛氏の謝辞)長い眠りから甦った。巻末には「こはく文庫」について、・・・二十世紀の小さな刻印が二十一世紀に輝く、そんな顔ぶれの本をお届けします。と書かれている。輝ける素晴らしい21世紀のオマケに感謝している。

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井上 邦久(2026年4月)