【中国あれこれ】『第十九章 躍進期の始まり ② トラックばけばけ その2』

2000年に入り、中国は国策として物流産業の大改革を実行することになる。高速道路の建設だった。巨大な国土を持つ中国にとって物流網の整備は経済発展に欠かせない課題だった。各地で高速道路工事が始まった。1990年代まで物流も計画経済型の輸送で、その主役は鉄道だった。物流産業の発展には、適時、的確な輸送が求められた。時間が不安定な当時の鉄道輸送を大型トラック輸送に変える必要があった。
建設は急ピッチで進んだ。土木技術力は当時の先進国のそれには及ばなかったが、中国土木には強みがあった。人海戦術である。工事のスピードは速かった。僅か一年で数千キロの建設が進んだところもあった。
「五縦七横」という各省都や主要都市を結ぶ南北に5本、東西に7本の幹線道路建設計画が始まった。同時に政府は国営自動車メーカーに高品質の大型トラックの生産を指示した。世界の大手大型車メーカーがやがて到来する物流産業の新市場に期待した。

上海匯衆汽車製造有限公司の生産技術は決して高いとは言えなかった。第一汽車、東風汽車でも自動車先進国の大型トラックとは品質に大きな差があったが、上海匯衆汽車は更にそれらを下回っていた。ここで本当に合弁事業が出来るのか、我々はどこから話を進めて良いかに戸惑いを感じていた。相手を知るために準備したチェック項目はどれもパートナーとなり得る基準を満たしてはいなかった。

初日の協議が終わった。
年間10,000台の生産能力を持つ工場にする計画だった。しかし、この時点で上海匯衆汽車の生産実績は年間1000台にも及んでいなかった。
根本的な問題であった合弁事業の外資JV2社規制については、当時いすゞが認可を得ていた小型トラック生産とは別カテゴリーとして大型トラックの認可を得るという説明がされた。しかし、それが政府の確約を得たものとは考え難かった。上海匯衆汽車の中長期計画、市場目標における大型トラックの生産は、中国三大自動車会社グループの一社として半ば国家の使命を受けているようにも感じた。現状から脱却するために上海の必死さが伝わった。
上海汽車側は皆、医師から告げられる病名を待つ患者のような表情を見せた。

「工場見学をさせて頂きたいのですが」工場設備と生産している車両を見たかった。
「工場は明日、ゆっくりと皆さんに見て頂きます」
「まだ時間があるので、これから見せて頂けませんか」
「明日にしましょう。今日は先にホテルに戻られて、夕方から会食を用意していますので」
その時、上海汽車の面々は皆笑顔だったが、どこか違和感を覚えた。
その晩、上海料理を囲みながら「茅台酒」で歓迎された。

翌日は工場見学から始まった。組立ラインの自動化はほとんどなされておらず、ほぼ人の手によって作業が行われていた。生産台数も日に何台出来るのであろうかと思うほど生産効率は良くなかった。組立ラインには生産途中と思われる車両が並んでいたが、作業員はほとんどいなかった。それにも拘わらず、現場には早朝からかなりの人数がライン以外の場所で何か別の作業をしていた。
「ハバさん、あれ、KDのケースっぽくありませんか」Kが指さす工場の隅にモスグレーンのちょっと厚めのグランドシートに覆われた木箱らしきものが目に入った。近寄ろうとしたその時、背後から案内の担当者の一人が笑顔で言った。「幅舘さん、こちらです」と、まるで近寄るなと言わんばかりに見学の「正当なルート?」に導いた。
「あの大きな木箱は何です?」
「あれは、業者に渡す前の鉄くずです。なかなか高く引き取ってくれます」と笑顔で答えた。
そんなわけがない・・・・・・、シート隙間からみえた木箱は新しかった。油のついた廃棄用の鉄くずが入っているとは思えなかった。
CAB(運転台)のスポット溶接ラインで数人が作業をしていた。日本の溶接ラインはほぼロボットで自動化されていたが、当時、まだ外資の自動車メーカーを除いては、ルーフ部分、両側面部分を治具に固定して人による溶接を行うメーカーがほとんどだった。そのCABのデザインはどこかで見たことがあるような形をしていた。当時、中国自動車メーカーの多くが海外ブランド車を模倣しているケースが多く、ここもそれと同じなのだとその時はそう思った。
しかし、その考えは間違っていた。

昼食は工場の食堂に準備された。中国の工場は大体において、来客用の部屋が用意されていた。食後、たばこを吸いに外へ出た中国人の部下が足早に戻ってきた。タバコを吸わない私は食堂のその来客用の部屋で上海汽車集団の幹部と仕事とは関係のない話をしていた。これも相手を知るため必要なコミュニケーションだった。
「幅舘さん、ちょっと」その部下が私の耳元でそう言うと部屋の外に出るように促した。
「どうした?何かあったか?」
「タバコを吸いに外に出たんですけど、ここに戻る通路を間違えてしまって。そうしたら、そこにKDケースを解体した木片があって、その板の部分にシッピングマークが印刷してありました。それが、Made in Koreaとなっていて、マークには「Ssangyong」って印刷してあるんです。それって、韓国の雙龍自動車ですよね」
『そうか、あのCABはどこかで見たことがあると思ったが、雙龍のCABだ』私の中で合点が付いた。

「では、今後のアクションプランを作成するにあたり、ご要望があればお聞きしたいのですが」
午後の協議が始まった。私は、予定通りの話を切り出した。
「先ずはCABの技術援助契約について議論したいのですが、よろしいでしょうか」
「CABだけのTA(技術援助契約)を結ぶということですか」生産技術部長が尋ねた。
「もちろん、いすゞとは合弁事業にしたいと考えていますが、合弁まで自社ブランド車のモデルチェンジとして最新型のCABを搭載した車両を市場投入し、認知度を上げたいと考えます」
外に十数台並んでいたDATONGブランド車のCABはかなり旧型のものだった。さすがの中国市場でも「売れるトラック」には見えなかった。先ずは先進型のCABを導入したいのだと思った。
「CABとシャシーのマッチング技術は簡単ではありません」技術部長は遠回しに不可能であるということを示した。
「マッチング技術には経験がありますので、その点におけるリスクはこちらで負えると考えています」
「それは雙龍自動車のCABを試験的に導入したからですか」私は切り込んだ。もし、違っていれば気まずいと考えたが、このままでは埒が明かないと思った。一瞬相手の顔が歪んだように見えたが、直ぐに答えが返ってきた。
「ご存知でしたか。実は二年ほど前から雙龍と大型トラックの共同開発を進めています。しかし、巧くいきません。雙龍のCABをDATONGに載せるところまでは何度も試して、その結果改良技術は習得できました。いすゞの皆さんにお越し頂き、雙龍と関係があることが分かると気分が良くないだろうと思い、それを伏せました」
恐らくライン外で作業していた人たちは、雙龍との関係が見えないように「隠す作業」をしていたに違いない。
「そうでしたか、お話しいただき、ありがとうございます」私はあえてそれを追及することはしなかった。

それから我々は個別に合作内容を詰めるべく幾度と上海を訪れることになる。そんな状態が2・3か月過ぎた頃だった。上海汽車集団公司の若き部長M氏から国際電話があった。
「幅舘さん、当局からいすゞブランドでのトラック生産は認可されないと連絡がありました。対策を考えなければなりません」私は直ぐに社長室のS室長に報告した。
「やはり無理です。当局はトラックの大小は関係なく同カテゴリーとの判断を下しました。JV2社規定は特例を認めませんでした」
「そうか、やっぱり駄目か」
しかし、室長はあまり驚きを見せなかった。数日後、米国に出張していた室長から電話があった。
「ハバ、GMアジアのMr. Tとコンタクトしろ。今回の大型トラックの件、いすゞブランドではなくGMブランドでJVを組むぞ」
室長はGM本社と何か話したのだと推測した。GMアジアの統括機能は拠点を上海に置いていた。私は直ぐに上海に飛んだ。

一つ一つ課題を解決し、ついにMOU(基本合意書)を締結することが決まった。基本合意書は上海汽車工業(集団)総公司、上海匯衆汽車製造有限公司、いすゞ、そしてGMの署名で交わされることになった。私は社長室から中国事業部に戻った。あとは、GMと歩調を合わせいすゞの強みを出して初の大型トラック合弁事業を成立させる段階に入っていくものと考えていた。
突然Kが会社を辞めた。理由は分からなかった。

その報道は突然だった。
『いすゞ自動車 上海で大型車トラックの合弁を発表』日経新聞の一面だった。
「なんで?」私は驚きのあまり声がひきつった。誰がリークした?まだ発表できる段階ではなかった。何が起こったのか頭が混乱していた。
会社広報部に問い合わせが相次いだ。翌日からいすゞの株価が上がった。
その後、ひと月も経ったであろうか、上海大型トラックの合弁の協議は白紙に戻った。そのひと月でなにが起こったのか。

「トップ判断だ。納得してくれ」
S室長はそれ以上を口にしなかった。
上海は大型車を諦めたのか?そうではなかった。2年後、韓国雙龍自動車が上海汽車工業(集団)総公司に買収された。そして、上海匯衆汽車製造有限公司は完成車メーカーから大型車部品メーカーへと企業の形態を変えて現在も中国の大型車のシャシーを生産している。
Kは社長室で何を知ったのか? それから暫くして彼から真相を聞いたが、最後のベールは捲れないままだった。しかし、会社の為にあのプロジェクトは意義のある中断だったと今も信じている。

当時の輸送において、鉄道の重要性は高かったが市場経済化した物流ニーズに十分対応できず、使い勝手への不満が強かった。しかし、高速道路建設による物流改革は鉄道輸送にも派生効果を齎した。現在ではトラック輸送も鉄道輸送も夫々の利点を生かし共に輸送量は増加している。宅配の発展も、初期に日本型宅配の発想や運営ノウハウを参考にしつつ、中国独自の進化を遂げた。そこには、大型トラックの発展が貢献したことを疑う者はいない。
中国大型トラックメーカーは確実に性能を上げ、中国国内輸送の主役となった一方、現在では一帯一路政策の拡大により輸出も増加している。
中国の高速道路の総延長距離はアメリカの10万キロをはるかに超え、19万キロに達し、更に建設工事は続いている。高速道路網の発展に伴い中国の公路貨物輸送量は年間420億トンとなり圧倒的な世界一となった。

自動車大国中国、乗用車のみならず商用車、バスも大きく中国経済を支える産業になった。
しかし、そこに至るまで、中国がどれだけの困難を越えてきたか、若き経済エリート達は知っているであろうか。

幅舘 章(2026年6月)