【中国あれこれ】『第三章 現代中国への道 ②』

1988年2月、ウルムチの冬は灼熱の夏が恋しくなるほどの極寒を感じさせた。現在ほど観光地化されていなかったウルムチは大半がウイグル族で、人種の違うまるで異国であった。私は、新疆機電設備輸出入公司(機電公司)とのKD(ノックダウン)商談の為に当地を訪れていた。砂漠専用車の実験でタクラマカン砂漠に行った時以来のウルムチ訪問であった。機電公司の担当者が町を案内してくれたが、漢語は通じない世界だった。

計画経済からの脱却、そして社会主義市場経済という新経済路線を模索していた中国は、国際貿易においても即座に全てを市場経済に移行することは難しかったが、古くからウルムチに存在する「バザール」は個人の露店が並び生活用品、衣類など様々なものが売られていた。物珍しく並ぶ商品を見ながらウイグル人の生活を垣間見た。
「幅舘さん、お土産にこの剣は如何ですか」と機電公司の人が店頭に並ぶ異形のナイフを取り上げた。「これは宴席の主人が客に羊の肉料理を取り分ける時に使うものです」と説明を受けたが、どのように使用するものなのか想像もつかず、ましてやナイフを持って飛行機に搭乗できるわけもなく、笑ってごまかした。何年も経ってから内モンゴルでそのナイフを使いテーブルの上の羊の丸焼きの肉を削ぎ、手から手に肉を渡すもてなしを受けた時に、あの時のナイフはこれだったのかとウルムチを思い出した。

露店の一つに目が留まった。カレンダーを売っていた。当時、まだ写真製版技術が現在ほど発展していなかった中国では綺麗な印刷物は珍しかった。売られていた中国製のカレンダーも色のずれた写真のものが多かった。
「ん? なんで?」そこにいすゞ自動車のカレンダーが他の中国のカレンダーの倍の値段で並んでいた。年末に中国の顧客に配布する為に日本から送られてきたものだった。中国の祝祭日版を特別に印刷したいすゞのカレンダーはユーザーから好評であった。しかし、それが遥かウルムチの露店で売られているとは想像もしなかった。ウイグル民族伝統の帽子ドッパを被った店の男が何か言った。機電公司の人がそのウイグル語を訳してくれた。「ウチのカレンダーは上物ばかりだ。安くするから買っていかないか」と。確かにいすゞのカレンダーは他に比べ「上物」だった。どこからか手に入れたそれを売る商魂には半ば感心した。

当時は年末になると、突然知らない公司の人間が事務所を訪れてくる。目的はカレンダーだった。名刺を差し出し、決まって自己紹介をした後に「いすゞ自動車のトラックを知人に紹介するから、カレンダーをください」というものだった。事務所も毎年のことなので、宣伝用としてストックしていた。ある日の通勤時、社用車が交差点にいた警官に突然止められたことがあった。何も違反していなかったが、ドライバーが何やら一言二言話してクルマを再び走らせた。
「あとでカレンダーをあの警官に渡してもいいですか」とドライバーが言った。現在では殆ど見ることがなくなったが、2000年以前は外国企業の社用車のナンバープレートは他のクルマと違い「黒」かった。だから、警官はその「黒ナンバー」で外国企業だと分かり、綺麗なカレンダーを欲しがることがあった。カレンダーで喜んでもらえるなら結構なことである。出勤後、早速ドライバーにカレンダーを10部ほど持たせた。

今では最新の印刷技術で制作された美しく豪華な中国のカレンダーを欲しがる日本人も少なくないようだ。今でも中国ではカレンダーを届けることは習慣として根付いているように思える。カレンダーによってビジネスの糸口や人間関係を作ることもめずらしいことではない。

現代の中国ビジネスマンは「人脈のないところにビジネスなし」が鉄則だと言う。これは今に限ったことでもなければ、中国に限ったことでもないが、中国においては特にそれを重んじているように思われる。それは中国文化の一つとして捉えるべきなのかもしれない。

中国において「人を知っている」ことでビジネス速度が変わることは長年の交渉を経験してきた上で実感する。人脈は大事なビジネスツールであるが、容易に構築できるものではない。信頼関係を一つ一つの積み重ねで出来る鍾乳石のようなものである。しかし、誠意をもって付き合うことでそれは叶うものだと信じている。

たかがカレンダー、されどカレンダー、365日を記すそれは、一年間が終わると役目を終えるが、その365日に刻まれた事象で人間関係を構築すると思えば、カレンダーを配る思いも変わるのではないであろうか。

ウルムチのバザールでは今何が売られているのか、再訪してみたいものだ。

                                 (幅舘章 2023年8月)