【日中不易流行】「福井発『誠実さ』のバトンリレー、グリフィス、ハーン、魯迅、そして未来へー」

 今、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn 小泉八雲、1850-1904、以下ハーン)が注目を浴びています。一度は聞いたことがある「耳なし芳一」や「雪女」等の怪談で有名ですが、何と言っても3月まで放送されたNHK朝ドラ「ばけばけ」の影響が大きいでしょう。ハーンとその妻小泉セツをモデルに、明治期に異国からやってきて日本の民話や伝説に潜む美しさを見出したハーンとそれをサポートしたセツの物語は、今まで知らなかったハーンに関する史実を学ぶ大きな機会となりました。ドラマや映画などの映像化によるPR効果は桁違いに大きく、ハーン(小泉八雲)の名をさらに有名にして、舞台となった松江と熊本の地域おこしにも一役買っています。
 さて、話題のハーンが日本に来るきっかけには、福井が深く絡んでいるのです。いわゆる「お雇い外国人教師」であったハーンが全国的に有名であることに、私はいつも少しジェラシーを感じます。というのも、全国的にはあまり知られていないもう一人の「お雇い外国人教師」が福井にいたからです。ウィリアム・エリオット・グリフィス(Willian Elliot Griffis、1843-1928、以下グリフィス)。グリフィスは、米国フィラデルフィア生れ。1871年に福井藩の「お雇い外国人教師」として来日。福井藩校「明新館」で理化学を教えて、福井の教育に貢献しました。約11ケ月間福井に滞在した後、大学南校(東京大学の前身)で教え、1875年に帰国。帰国後は、作家として活動しました。1876年に日本の歴史・文化を欧米人に紹介した「皇国」(The Micado‘s Empire)がべストセラーになりました。つまり、後にアメリアにおける日本の歴史・文化研究の第一人者となったグリフィスの原点は福井にあったのです。「グリフィスは、どこに行っても日本というと福井の話から始め、福井滞在は彼の人生に中で大きな比重を占めている」とグリフィス研究家の山下英一先生は述べています。
 このグリフィスが福井に来たきっかけにはもう一つ悲しい物語がありました。幕末にグリフィスの母校ラドガース大学に学び、25歳で客死した福井藩初の留学生、日下部太郎(1845-1870)との縁です。日下部は、クラストップの優秀な留学生でしたが、不幸にも寝食を忘れるほどの猛勉強の無理がたたり留学先で亡くなってしまいます。日下部にラテン語を教えていたグリフィスは、この真面目な日下部を生んだ日本に興味を持ち、そしてまるで日下部に導かれるように福井藩に招かれたのでした。
 さて、ハーンに話を戻します。なぜ、ハーンが遠い日本にやってきたのか。ハーンは米国で新聞記者であった当時、ニューオリンズで万国博覧会が催され、日本に興味を持ち、日本館のパビリオンに通い詰めたそうです。そこで出会ったのが、文部省から派遣されていた服部一三(後の貴族院議員)であり、服部と日下部とは同じ時期にグリフィスから学んだ留学生という縁がありました。さらに、ハーンが1890年に来日する以前に当時唯一の日本関連本であったグリフィスの「皇国」を読み、その影響を強く受けたと言われています。この福井との二重の縁が、ハーンの日本行の背中を押したのです。
 グリフィスと日下部については、「日下部・グリフィス学術・文化交流基金」のHP(http://www.kusakabegriffis.com/)をご覧ください。また、グリフィス研究者の山下英一先生が多くの著書を出されています。私は、15年程前に福井大学が管理していた本基金の事務局長を3年間務めた縁があり、山下英一先生と大変親しくしていただきました。その後私がモデルとなったNHK福井発ドラマ「シューカツ屋」(2020年)でNHKとの縁が出来た際に、グリフィスをドラマの素材として個人的に売り込んだ経験がありました。当時もグリフィスはハーンと比較されました。学術的な業績は別にして、煩悩の原因となる若い女中を自ら遠ざけたストイックなグリフィスと、結果的に若い女中と夫婦となったハーンとでは、魅力的なヒロインの有無がエンターテイメント性では大きな差となる、と言われたことを覚えています。個人的には、この女中に関するエピソードを含め、日本初のクリスマスパーティーを福井で開く(1871年)など、誠実で真面目すぎるグリフィスの生き様が大好きで、もっと皆さんにその名を知ってもらいたいと思います。グリフィスについてはもっと書きたいのですが、残念ながら紙面の関係で別の機会とします。
 ただ言えることは、彼の著書「皇国」は、欧米人が対等なパートナーとして日本を認識した最初の日本ガイドブックであり、後々ハーンの著作とともに、敗戦後の進駐軍の天皇制存続の統治政策決定にも大きな影響を与えました。その原点は、彼が福井で見出した日本人の規律正しさと名誉を重んじる気質であり、「福井日記」(The Fukui Journal 1871-1872)に記されたものです。彼が福井で見た実直な日本人像が、日本人を見る最初のモデルとなったと言えます。そして、グリフィスの眼による記録に触れ、日本への憧憬の念を抱いて来日したのがハーンなのです。ハーンはグリフィスとはタイプが違います。理系のグリフィスは科学的な目で日本を分析したのに対して、新聞記者のハーンはその旺盛な好奇心と没入感により、民話や伝説を日本人の心の底に流れる無常観や慈しみの心の結晶として再構築していきました。言ってみれば、グリフィスが「古い迷信だよ」と片付けた怪談話を、「これこそが日本人の魂だ」と飛びついたのです。これによって、日本は単なる観察対象の発展途上国から、「愛すべきミステリアスで美しい国」へとイメージがシフトアップされた存在になったと言えます。
 そして、バトンは次に渡されます。ハーンがこの世を去った1904年、奇しくもその年に仙台医学専門学校に入学した一人の中国人留学生(周樹人)がいました。後の中国を代表する文豪、魯迅です。当時の日本は日露戦争の熱狂の中で、中国人留学生に対する眼差しは冷ややかでした。しかし、そんな中で魯迅を救ったのが福井県あわら市出身の解剖学教授藤野厳九郎、すなわち「藤野先生」でした。藤野先生は、差別や偏見なく、魯迅の解剖学ノートを真っ赤になるまで添削したエピソードは、以前拙文「魯迅『藤野先生』と福井」にて紹介した通りです。グリフィスが福井で見出し、ハーンが文学的に描いた日本人の「誠実さ」を魯迅は無私無欲の藤野厳九郎という実在の人物を通じて仙台で体感しており、後に小説「藤野先生」(1926)へと昇華させていったのでないでしょうか。そこに私は「誠実さ」という美徳のバトンリレーを感じずにはいられません。
 一方で、「小泉八雲と近代中国」(劉岸偉 2004)という本をみつけました。これによると、ハーンの著書は、1920年代から中国語に翻訳され、中国で広く読まれていたそうです。ハーンが記述した日本文化の独自性は、近代中国の知日派知識人にとって、新鮮であり、多くの示唆を与えました。また、1930年代後半になり日中関係が悪化してくると、「敵を知る」という意味での日本研究書としても脚光を浴びる等、ハーンと近代中国とは浅からぬ因縁となりました。中国に帰国(1909年)後の魯迅も当然ながらハーンの著作を読んでおり、「小泉八雲のトルストイ論」(1924年)の編集後記では、「文章の表現が普通の人に解されなければ、良い文学と言えるだろうか」とハーンの文章に言及しています。
 より多くの中国人民を救うために医学を捨て、文学の道を志した魯迅は、ハーンの描いた日本の甘美な郷愁に満ちた「光の世界」を鏡にして、自国の旧態依然とした「陰の世界」に光を当て、批判的な眼を持って中国の変革を志しました。居室の壁に掲げられた藤野先生の写真こそが、祖国が目標とすべきハーンが愛した「誠実さ」の結晶であり、日々自らを鼓舞するためではなかったか。こう考えると、魯迅が藤野先生の写真を終世壁に掲げ続けた謎が解けたような気がします。
 こうして魯迅が藤野先生を通して体感したものと、ハーンによる日本人観のイメージを重ね合わせると、福井から始まった「誠実さ」のバトンリレーは、新たな視点により彩りが増してきます。グリフィスが「日本人のフレームワーク」を捉え、ハーンがそこに「情や精神性の彩り」を注ぎ込み、彩りを鮮やかにする。それに影響を受けた魯迅が、祖国中国を救うための「変革への志」に繋げていった。そのリレーの最初と真ん中に居たのが、日下部太郎と藤野厳九郎。普通の真面目で誠実な日本人であり福井人です。
「嘘をつかない、約束を守る、差別をしない、相手を尊重する」という古来より大事にされてきた「誠実さ」がいとも簡単に踏みにじられる最近の状況。そんな中で、改めて先人が国境を越えて、時代を超えて繋いできた「誠実さ」のバトンリレーの清き流れを尊びたいと思います。そして、今こそこのバトンを未来に繋げるあらゆる努力が我々に求められています。

ウィリアム・エリオット・グリフィス
(Willian Elliot Griffis)
(「日下部・グリフィス学術・文化交流基金」HPより)
福井市グリフィス記念館
(グリフィスが住んでいた洋館を復元)
「福井市グリフィス館」HPより)

(大橋 祐之 2026年3月)