『火垂るの墓』

「Red Star」という品種名に惹かれ気まぐれに買ったハイビスカスが炎天下に深紅の花を咲かせ続けています。その陰で上海・横浜と種を繋いできた朝顔は控えめに咲いていましたが、9月になり開花数を増やしてきました。酷暑の余熱が残る9月10日、中秋節と若冲忌が重なりました。京都からJR奈良線で稲荷駅まで5分、駅前から石峰寺への登り坂で汗をかきました。

若冲忌の卒塔婆二本を供え、若冲作の柿本人麻呂像のオリジナル切手シートをいただきました。石峰寺蔵の原画は今回初公開され、松尾芭蕉像と並べて掛けられていました。二幅の掛け軸の寸法や構図はほぼ同じです。白い官服を緩やかに着た宮廷歌人は胸をそらせ、対照的に墨染めの衣の俳人は壮健さを隠すように肩をすぼめた姿でした。1800年に没した伊藤若冲。本堂回向は顕彰会員のみに制限、墓前での愛好家も含めた回向の列もそれほど長くありませんでした。

親戚の墓に参り、自分の墓地の草を引くルーティーン行動のあと、庫裏に戻り腰を据えて十数点の水墨画を鑑賞しました。人麻呂と芭蕉の人物像は同時期に一対で描かれたのかどうか?住職にも不明のようでしたが、双方の上半分以上の余白にいずれ画賛を描いて貰うつもりがそのままになったのでしょう、とのことでした。

寺から伏見稲荷大社の脇道を抜けて、駅前で松籟社編集職のN氏と合流し、少し縁のある「日野屋」で名物の雀をつまみにして歓談しました。

N氏は神阪京華僑口述記録研究会(関西の在日華僑一世、二世に会員がインタビューして、できるだけ生の声を記録に留めることをモットーにした活動)で、長年にわたり編集・出版の重責を担い、本年末に12年分の記録を分担要約して単行本に仕上げる企画の中心にいる人です。N氏からは3編の口述記録の要約指導をしてもらい、「勝手に前後の辻褄を合わせてはいけない」「語ったまま、記録したまま、(中略)も極力避ける」といった指導をして貰っています。しかし、面白く読みやすくする為の「メイキング」に走るミスが治りません。

10月22日にはシンポジウムを神戸華僑会館で開催予定です。口述記録に応じてくれたジャズトランペッターらの皆さんにも登壇願う予定です。感染拡大が続き開催延期を繰り返す中で、長年研究会活動の主軸として牽引してくれた二宮一郎さんが癌のため早逝されました。この日のN氏との対話も彼岸に逝った二宮さんのことに収斂されていきました。

フラットな視線で臆せず媚びずに語りかけ、喋りすぎずに話を聴く姿に常に「年季の入れ方がちがうなあ」と感じていました。学術論文から民衆生活研究、そして映画評まで幅広い守備(攻撃?)範囲で「脚」「舌」「筆」をよいバランスで駆使されることに舌を巻いていました。いつも坦々としたマイペースだった二宮さんが珍しく肩に力を入れて取り組んだのが、小説『火垂るの墓』記念碑建立事業でした。西宮市満池谷町を舞台にした小説やスタジオジブリのアニメで著名ですが、作者の野坂昭如の被災の足跡や作品舞台の特定が出来ていなかったとのことです。二宮さんは実行委員会事務局長として、ニテコ池近くの横穴防空壕を探し、西宮震災記念碑公園内に場所を確保して、更に資金の調達に尽力されていました。庶民レベルでの平和希求の強い想いが、多くのストレスを克服したのではないかと推察しています。

記念碑完成後ほどなくして二宮さんが倒れたとの報せがあり、口述記録出版の要約文章の代筆やシンポジウムでの二宮さんの足跡報告をまさに不肖の弟子が務めることになりました。

シンミリとならない程度に昼酒を切り上げ、すぐ近くの松籟社を訪ねました。静かな住宅街の一角、紙の匂いが漂い、書籍の中に部屋があるような趣深い仕事場でした。神奈川県立近代文学館の会報に載っていた紀田順一郎監修・荒俣宏編『平井呈一 生涯とその作品』を持ち帰らせて貰いました。その夜の一読だけですが、賞味期限がとても長そうな印象でした。

【補足・修正】

・9月3日、華人研例会でマカオを知るための報告をされ、香港を言挙げせずに香港を浮かび上げて頂いた塩出浩和氏も華僑口述記録研究会のお仲間です。

・8月『洛北余聞』の中国対外貿易の黎明期の記述について、W先輩から体験に基づく詳しい補足修正の文章を届けて頂きました。

私が初めて北京に赴任した1972年の状況は下記でした。

北京の総公司の所在は次のように二大別されていました:

場所は二里溝と東安門に分かれ、二里溝のビルは進口大楼、東安門のビルは出口大楼と通称されていました、当時二里溝に所在する総公司は輸入が多く、東安門に所在する総公司は輸出が多かったためと思います。

その内訳は:

二里溝 進口大楼    機械進出口総公司、化工品進出口総公司、五金矿产進出口総公司、技術進出口総公司

東安門 出口大楼    紡織品進出口総公司、糧油食品進出口総公司、土産畜産進出口総公司、

                         軽工業品進出口総公司

中国全土の輸出入を北京の総公司とだけで商談契約ができたので今思えば効率的でした、地方の各分公司が商談契約にタッチしだしたのは1980年代に入ってからだったと思います。」

丁寧なご教示に感謝するとともに拙文での不正確な記述にお詫び申し上げます。

まさに多余的話(言わずもがな)ですが、「進口」は輸入、「出口」は輸出を意味する中国語です。

井上邦久 2022年9月)