『「野尻眼鏡」中国盛衰記④』

「野尻眼鏡」中国盛衰記も4回目となりました。今回は野尻眼鏡グループの表舞台にでなかった影の合弁会社のお話です。

それは確かに存在していましたが、誰も本当の姿を見たことなかった。今では信じられないような話ですが、1990年代初めでは、日中友好の勢いに流されて、地方政府との壮大な夢のような計画の合弁会社が他にもあったのではないか? 野尻眼鏡の例は特殊だったのか? 中国が未だ混沌としていて、何でもありの時代。 2000年、その合弁契約を解消することが私のミッションだった。

 

 

野尻眼鏡グループは、1989年の合弁企業設立から、最盛期には合弁1社、合作2社、独資1社を上海に有していた。上海進出から終焉までの上記23年間の歴史の中で、実はもう1社の合弁会社「四川野尻眼鏡有限公司」が存在していた。その設立の経緯は以下の通り。

1995年の先代社長時代に上海野尻眼鏡の合弁先の紹介で、四川省の軽工業振興と合金眼鏡の新たな生産拠点構築のために地方政府である四川省某県をパートナーに合弁会社を設立(資本金500万元 内25%を技術指導で野尻本社が出資)。とにかく地方政府からの全面的な支援と金銭的な負担がないとの好条件で、勢いで合弁に至ったらしい。

設立以降2000年当時、上海の野尻眼鏡グループとしては、部品供給とメッキ加工で支援しており、四川省の工場では、組立・ロー付け・仕上げを行い、月産数千枚程度の中低級品を独自ブランドで中国市場に流していた。合弁企業ではあるが、そもそも地方政府が出資できるのか、実態は不明。日本人は誰も四川省に行って工場を見たことはなかった。対外的な存在公表もされておらず、「影の公司」扱い。細々ではあるが、グループ内での商流があり、代金決済さえされれば特段気になる存在ではなかった。

当時上海での生産はチタン製中高級品にシフトしており、ニッケル合金製部品の生産支援には限界があり、グループ内の異端児。しかも大きな問題を抱えていた。地方政府との設立時の約束として、設立5年後には年間100万本の眼鏡を製造するコミッメント契約書が存在し、契約解消には数億円規模の賠償金を請求される可能性がある、というものであった。

また信じられない事に交渉経緯の記録がまったく残っていなかった。さらに、合弁契約関係者が誰も真実を語らない。まさに雲を掴むような話。何よりも契約書ファイルに大量の真っ白な紙が綴ってあったことに驚いた。手品の種明かしは、当時使用していたワープロで印刷した感熱紙をそのまま綴りこみ、文字が経年で消えてしまったという嘘のような本当の話。

「四川省に撤退交渉に行ったら無事には戻れない」と社内ではまことしやかに言われ、誰も手を出さない潜在リスク。何せ相手は地方政府である。成都からどれだけかかるのかもわからない。そして、そもそもどんな約束であったかの根本的な情報不足。はたして合弁解消できるのか?一体幾らの補償金を支払えば手打ちとなるのか?先方からの追加条件は?すべてが疑心暗鬼。

そして、2000年の旧正月明けからの交渉が始まった。まず3月に総経理の紹介で地方政府の窓口となる副県長に面談。その後、本社社長が先方の県長に上海で合弁解消意向を通知。引き続き具体的な条件交渉と事務手続きに入った。その時の交渉経過については、当時の日記に記載されている。途中上海での交渉では紆余曲折があったとしか残念ながら詳細は書けないが、ハードネゴの中で、先方の窓口となった副県長との信頼関係醸成が最終着地できたことに大きかった。

20008月に四川省某県の県長室にて最終合意を行った。県政府の庁舎はりっぱな高層ビルで、人口が福井県よりやや多い80万人程度、改めて大変なパートナーと交渉していたことを実感した。その日の白酒「五粮液」の本場での大宴会は、一生忘れられないものとなった。

結果としては、賠償金は数千万円程度であったが、当初その金額の根拠を探るに苦労した。持分譲渡による撤退として、「董事会議事録」、「持分譲渡契約書」、「合弁終了契約書」を締結。当時の興銀上海支店から紹介されたA弁護士の指導が大変心強かった。交渉決裂したら、北京の仲裁裁判所への覚悟。200012月に関係者3名を日本に招待して、本社で調印式を行い、東京と札幌を回って帰国いただいた。なお、合弁解消条件として、引き続きの技術指導が付され、一部部品供与も継続された。

あれから20年、上海野尻は消滅してしまったが、中国全土に広がって行った「野尻眼鏡大学」発の技術が四川省で脈々と引き継がれているのではないか、と夢を見る。四川省は思い出深く、もう一度訪れたい地である。

2012年に野尻眼鏡が破綻した際の原因の一つが、上海工場の急激な人件費上昇であった。2006年に工場移転する際に、上海以外の内陸部への移転の選択肢はなかったのか? 当時の四川野尻の撤退は止むを得ないとしても、もっと大局的な判断があったのではなかったか? と言うのは後の祭りであるが、破綻時の総経理の言葉であった。その後の日系企業の内陸部への展開を見ると、四川野尻は少し発掘が早すぎたが、大事に磨くべき「宝の原石」ではなかったのか?

野尻眼鏡のケースは雰囲気に流された安易な合弁契約による特殊な撤退戦だったが、個人的にはここから得た教訓は多かった。撤退戦は専門家の力は必須。「最大のリスクを想定し、最小化する」ためにあきらめず粘り強く交渉する。

あれから、20余年経過して、今現在進出企業が出口戦略をリアルに考える局面に来ている。

現在、海外現地法人は、米中分断、コロナ禍、そして2.24ウクライナ侵攻の世界情勢の激変により「海外現法EXIT」(出口戦略)が議論されている。また、中国現地法人の営業許可の期日到来に関連した撤退戦も現実となっている。ロシアのウクライナ侵攻の終息が見えない中、何時の時代も「撤退戦は難しい」と「不易流行」を噛み締めている。

紙面が尽きました。この続きは次回とします。

福井大学 大橋祐之 (2022年8月)