【中国あれこれ】『第十四章 現代中国への道 ⑬ バス市場変化』

最近、YouTubeで中国遼寧省丹東の現在の様子を見た。日本人旅行者が街の様子を紹介していた。高層ビルが建ち、近代化された街には活気が満ちているようだった。中国経済の急速な発展と共に丹東の街も大きく変貌を遂げている。ただ、そこには何も変わらないものがある。 北朝鮮との国境である鴨緑江の滔々とした流れだった。

1988年11月上旬、中国東北地方の一般家庭や公司には暖房用の温水供給が始まっていた。所謂オンドルである。この季節になると石炭を火力の原料とするために空は煤煙のスモックで色を失う。
私は伊藤忠商事のN氏と共に中国国営の丹東バス製造公司を訪れていた。丹東バス製造公司は中国の有名なバス製造企業だった。しかし、当時の中国のバス製造技術はまだ先進的なものではなく、エンジンは前方置き型(フロントエンジン)が多かった。エンジン部分が運転席の真横に位置し、客席の空間を狭くしていた。
アメリカの黄色いスクールバスは別として、先進国の公共交通バスや観光バスはリアエンジンが主流である。丹東バス製造公司は新しいバス製造技術の導入を考えていた。しかし、その当時の丹東バス製造公司の工場は組立て設備も乏しく、ほぼ手作業による組立てだった。それはこの丹東バス製造公司に限らず、どこのバス製造会社も同様だったに違いない。生産性は決して良いとは言えなかった。

1980年代、中国にけるバス製造台数は小型から大型まで合わせても約5万台前後であり、その数は日本の年間生産量とほぼ同じであった。中国は1981年に人口10億人を超えた。公共交通としてのバス需要は大都市に集中しており、バスの数は圧倒的に不足していた。中国自動車産業政策におけるバス開発は乗用車市場拡大が優先されたことで後れが生じていた、人口増加に伴うバスの量産は急務だった。乗用車市場においては、フォルクスワーゲンの上海生産を筆頭に欧米、そして日本の自動車メーカー各社が相次いで中国進出を展開したが、バスの生産技術に関してはスピードが上がらなかった。しかし、10億人を超える国にとって、人の輸送手段としてのバス市場のポテンシャルが高いことは明らかだった。

当時、外貨保有量にまだ余裕のなかった中国政府は、公共交通の安定化を図るために台数の確保を優先し、中古バスの輸入を促進させることになる。 首都北京の公共交通ですら日本から輸入した中古のバスが走った。中古バスは日本で運行していたままの姿で使用された。  バスの側面には「神奈川中央交通」「国際興業バス」など日本の運行会社の名前がそのまま書かれていた。
中国は右側走行なので乗降口は車道に向いていた。停留場に着くと乗客は我先にとバスを回り込み車道側の乗降口に突進した。そのような状況の中、沖縄から那覇交通のバスが輸入された。沖縄は戦後、アメリカの統治によって右側走行となった。つまり左ハンドルであり、それは中国と同じであった。しかし、沖縄返還時に右側走行から左側走行に変わり、ハンドルも左から右になったことで公共交通バスは使えなくなり、右側走行の発展途上国に輸出されたのである。日本の中古バスは性能が良く安価で世界中から注目された。北京でも長安街を走る人民の足として重宝された。

「Nさん、中国もいずれ大量のバスが必要になりますね。でも新車を輸入する余裕はまだないですね。当分商売にはならないでしょうね」
「今はそうやけどな、恐らく近々ODA(対中円借款)でバスの大量輸入が行われるはずや。そうなれば、次は中国で最新型のバスを生産する段階になる。今は種まきや」
大阪出身のN氏は今の商談がまだ始まってもいないのに、将来の中国市場を読み、それにどう絡んでいくかをその時点で既に考えていた。なるほどと私は自分の思慮の浅さと勉強不足を恥じた。
日本政府による1979年から始まった対中国円借款プロジェクトは2018年度を最後に終了したが、その間にバスの入札案件が何回か実行されている。
1980年代の中国自動車産業政策による完成車の輸入においては、車両のカテゴリーによってメーカーが絞られる暗黙の流れがあった。それは車両を輸入した後のアフターサービス用の部品の種類を統一させる狙いがあった。タクシーに多く使用されたセダンはトヨタと日産、4WDは三菱、小型トラックはいすゞ、そしてバスは日野だった。
その後、N氏の予想通り、ODAによるバス輸入により一時日野のバスが目に付くようになる。
現在では世界で最多のバス保有国となった中国、国内外での市場シェアを確実に拡大させた。高品質、低価格の中国製バスはかつての日本製バスに代わり世界から注目されている。特にEVバスは日本への輸出も拡大しており、ゼロエミッション対策の一役を担っている。最初に日本に大型公共交通バスを投入したのはBYDだった。京都プリンセスラインバスに納車された。日本市場を徹底的に研究したBYDのバスは日本市場に受け入れられた。

現代の中国バス技術の発展を当時の丹東バスを訪れた時点では想像することは出来なかったが、今や中国には世界に飛躍するバス製造会社が何社もある。BYD、宇通バス、金龍バスなどがその代表である。しかも、右側走行車も左側走行車も生産しているのである。日本車メーカーにとっては大きな脅威となっていることは間違いないであろう。

「ハバちゃん、丹東バスの様子も分かったし、関係もできたから今日はちょっと遊ぼか。鴨緑江の遊覧船に乗ってみようや。面白そうやん」

鴨緑江には「中朝友誼橋」という北朝鮮と結ぶ大きな橋が架かっている。その近くに船乗り場があり、川幅1キロ近くある鴨緑江を北朝鮮側ギリギリまで行って戻ってくるというものだった。今もその遊覧船は観光人気スポットであり、観光地化された丹東側の「中朝友誼橋」周辺は外国人に対する行動規制はないとYouTubeでは紹介されていた。しかし、当時は外国人がその遊覧船に乗って良いものかどうかも分からないまま、不安を感じながら乗船券を買った記憶がある。
船の左側面には大きな横断幕が張られていた。「朝鮮の友人たちよ、共に近代国家建設のために頑張ろう」というような内容だったと記憶している。
船が北朝鮮に近づき、船上から丹東側を見て驚いた。丹東の街に綺麗な建物立ち並んで見えた。乗船する時は気が付かなかった。下船して船上から見えた建物の近くに行ってみた。古いレンガと土の壁の表面がペイントされて装飾されていた。きっと、北朝鮮からは「中国は綺麗なところ」に見えるに違いない。北朝鮮へのエールなのであろうか。
「中朝友誼橋」に並行して朝鮮戦争で半分を破壊された「鴨緑江断橋」が川の途中まで残っている。歴史を忘れないための象徴的存在である。

中朝友誼橋は北朝鮮との正に貿易の懸け橋だった。自国のバス不足という状況にあっても  中国は北朝鮮に丹東バスを輸出していたと聞く。
国の発展を見て来た鴨緑江の流れは今も変わることなく、そして今後もその様相を映していくであろうと信じている。

YouTube情報、捨てたもんじゃない。

幅舘 章
2025年6月