『「野尻眼鏡」中国盛衰記③』

前回からの続きです。

野尻眼鏡は20038月(前回2002年と記載しましたが訂正します)に中国公安当局と上海工商局と共同で、上海市場に出回っていた同社高級ブランド眼鏡のコピー品販売業者を逮捕したとホテルで記者会見を開いて大々的に発表した。主犯格3名を逮捕したら、なんと内2名は上海野尻眼鏡の元社員だった。犯人グループが生産委託していた工場からは、多数のコピー品や製造設備(治具)が見つかったという。中国では今でもコピー品が横行しているが、当時商標権侵害の逮捕者にこぎ着けたケースは稀という事だった。この件について、ジェトロ福井貿易情報センターは新聞の取材に応じて、「コピー対策として、法的措置は効果的。費用がかかると思われるが長く中国で商売している上で、自社ブランドの価値を下げないためにも決して泣き寝入りしないこと」と警告していたが、実際は「泣き寝入り」と「イタチごっこ」が多かった。

今では法的措置は珍しくもないが、2003年当時地方の一中小企業が法的措置を行い、それも大々的にマスコミを呼んでの記者会見を開くことは珍しかった。「中国眼鏡業界の先駆者としてモラルを守る姿勢を示した。国内外を問わず、消費者に対し製造者の責任を果たす」(本社専務)との正義感溢れる勇気ある行為で、賞賛されるべきだろう。しかし、アウェイの地であえて目立って正義の刀を振りかざし、かえって「返り血を浴びる」、「出る杭は打たれる」のではと心配した。「よくやった」と素直に手放しで喜べなかったと記憶している。

法的措置と記者会見については、日本本社の意向が強く働いていたが、退職した元幹部社員一派との根深いドロドロした場外バトルが大きく影響したとのことだった。記者会見では中国ビジネスの理不尽さをこれ見よがしに告発し、自らの正義感と勇気を誇ってはいるものの、実際は「自分に非が無い100%被害者」のように言っているだけで、その後ろにある元の仲間をかつての職場を裏切る犯罪行為に駆り立てた深い闇を見極めていなかったし、ましてやこのような事件を乗り越えてよりよい会社にするために何のコミットメントもされていなかった。法的措置はさて置いても、宣戦布告にもとれる記者会見は果たして必要だったのだろうか? かつて出向者として野尻眼鏡の中国ビジネスを管理する立場にありながら、中国で起きていた実態を深部まで解明しきれなかったことへの「忸怩たる思い」がある。

逮捕者を出したのは、合弁会社で中国国内に販売網を持つ、1989年設立の上海野尻眼鏡有限公司。2000年当時で「野尻」ブランドをメインに中国全土に年間約5,000万元の売上げ。経常利益約500万元で、その後を振り返れば当時が最盛期であった。ただし、売上債権回転期間は約6ヶ月、棚卸資産回転期間は約5ヶ月と常に売上代金回収には苦労していた。中国での眼鏡の販売方式は、基本的に代理店に対しての委託販売方式。売り上げた分だけの入金となる預け在庫方式。また、売上に応じた歩引きやバックマージンもあり、これらに耐えられる利益構造と財務体質が必要となる。

余談であるが、「花八層倍。薬九層倍」と花や薬は粗利が大きい商材と言われるが、「値札の半額、2本目から半額」で売られることもあるファッションアイテムか医療器具なのか微妙なポジションにある眼鏡の利益構造も外から見てかなり不透明だ。眼鏡業界は、産地としては残念であるが、ボリュームゾーンの一般流通品では販売側に価格決定権があると言われている。日本では現在も眼鏡小売りチェーンは大企業であるが、メーカーは中小企業ばかりである。

さて、中国主要都市にある代理店には、定期的に上海野尻眼鏡の営業マンが回り、注文取りや集金を行っていた。売上げや代金回収率は営業マンの力量に大きく依存している点が多い。また、営業マンと代理店の関係は深い。日系販社の総経理の話では、これは今も変わらない。当時も今も営業マンの裁量部分が多く、現場の実態がよく見えない。中国は余りに広く、各地に独特の商慣習が存在する。

2000年に中国人営業部長が大口国有系代理店幹部の汚職事件に関係して、公安当局に逮捕される事件が発生した。董事長の本社社長にも累が及ぶかもしれないということで激震が走って、急遽中国に出張したことを覚えている。真相を調査する為の出張であったが、国有企業系の事件という事、合弁先へ遠慮、中国人営業マンに権限移譲している中での見えない部分、現地の管理者としては本社に見せたくない部分という岩盤を孤軍奮闘では突き崩すことはできなかった。本社社長からの「全権委任状」の効力もなかった。結局営業部長の退職でこの話は立ち消えになったが、見えない闇が広がっていった。

2003年のコピー品販売事件の根っこは2000年当時既に存在し、その後の話では、中国人営業部隊が幹部社員をボスとする二派に分れて、販売部門のいわゆる「美味しいところ」を巡って社内抗争を繰り広げ、退職した側が製造部門を巻き込んで仕返しをしたものであったと聞いた。中国ではいわゆる「小金庫」(別会計/裏金)はあると伝えられていたが、本社の管理責任者として、それを無くすことは非常に悩ましかった。

数年後別会社の中国現法2社の総経理になって、「小金庫」を管理する側として現地なりの事情がようやく理解できた。この問題については、現在においては、ガバナンスやコンプライアンス上許されるものではないだろう。コロナ禍で本社管理部門の中国現地への出張が停止し、権限違反や不正行為への懸念が増加している中で、「両目をカッと開けるのか、片目なのか、薄目なのか」今でも悩ましい問題として存在する。

中国での永遠の課題である売掛金回収だが、1999年頃野尻本社の買収話が持ち上がり、某大手公認会計士事務所のデューデリを受けた際の話。若手公認会計士3名に同行して上海に出張した。1週間の査定結果は、上海野尻眼鏡をはじめ中国現法の売掛金や在庫を一刀両断、ほぼ全額不良債権と評価され、グループ全体で実質債務超過状態であるとの判断だった。底溜まりの未収部分があるとは言え、商品は動いており、キャッシュも回転している。中国での商慣習上止むを得ないことを何度も説明し、かなり激しい議論になったことを記憶している。

結局、中国での野尻ブランドや当時日系で唯一であった中国での販売ネットワークに魅力を感じての買収話は、中国現法は「取引が不透明であり不良資産の塊」との評価が大きな要因となり、その話は結局流れた。今思えば、その時が野尻眼鏡の運命の分岐点であった。歴史の「もし」を思うと、野尻眼鏡は名前こそ変わっても存続していたのではと思う。福井では、2015年中国現法の巨額不良債権発覚による破綻した江守グループホールディング㈱の事件が発生した。これも、中国現法取引の査定が引き金になったチャイナリスクの教科書に載るような事例。その引当額については当時金融機関と相当議論があったとのことで、野尻眼鏡のケースを思い出したものである。

これらの野尻眼鏡での経験を経て、2004年に転職して繊維製品の販売会社を上海に立ち上げた。

今度は立場が逆転して現地総経理として中国での営業を現場で体験することになる。当時は「中国ビジネスに踏み込んだ限りは、コンサルティング的な安全地帯に居るのではなく、ドップリと当事者として中国で営業業務をやってみたい」と今思えば無謀な「ええ恰好しい」。願いは叶ったが、現場は悪戦苦闘で修羅場の連続であった。今現在、コロナ禍下の中国販売現法の現状をZoomで聞いても、営業や管理の苦労は往時とさほど変わっていないのに中国の営業現場の「不易」を感じる。

紙面が尽きました。この続きについては次回とします。

福井大学 大橋祐之 (2022年6月)