『「野尻眼鏡」中国盛衰記②』

今は昔、2001725日放送のNHK「クローズアップ現代」を見ている最中に驚いて思わず声をあげたのを覚えている。当日のタイトルが「メガネ五千円の衝撃」。初代の国谷裕子キャスターだった。番組の中で、見覚えがある顔がインタビューに答えていたのだ。1989年の上海現法創業以来のメンバーで、1999年に辞めた中国人A副総経理。当時眼鏡ショップ「Zoff」が5,000円、7,000円、9,000円の3プライスで、レンズ代込みの普通では考えられない低価格でのフレームを販売して話題になっていた。これらの廉価フレームは、ほとんどがニッケル合金の中国製で、多くは浙江省温州のメーカーに生産委託されていた。現在では多くの眼鏡チェーンの目玉商品は5,000円(レンズ込)程度であるが、その流れは今も変わっていない。その中で、まだ鯖江メーカーしかできないと言われた高級品のチタンフレームの生産を請け負っている中国企業がある、ということでNHKが取材したのだった。さすがのNHK取材力で、それが元副総経理の今は上海〇〇眼鏡有限公司のA社長。当時日本の眼鏡販社数社から委託を受けて、月産25,000枚のチタンフレームを生産していた唯一の中国眼鏡メーカーだった。

チタンは、軽量で強度があり、錆びることもなくニッケルアレルギーフリーで、優れた眼鏡フレーム素材であったが、細かい加工や接合が難しかった。しかし、1980年代に鯖江のメ―カーが試行錯誤の末、加工方法を開発。チタン加工で最も難しいのは「ロウ付け」と呼ばれる部品と部品の接合である。これを特殊なガスによる不活性状態で熱を加える方法と接着剤の「ロウ材」に特殊素材開発で解決した。ちなみに、チタン加工技術について特許は存在せず、また鯖江地区の眼鏡メーカーはほとんど顔見知りの企業であるため、暗黙の了解で産地での特許侵害や関連の紛争が表立って起きることはなかったようだ。「あの時特許申請していれば、今とは随分状況は変わっていただろう」とは開発メーカーの社長の言葉。ここにも教訓と後悔がある。そしてこの大事なチタン加工技術は鯖江産地から中国へと渡った。

このチタン加工技術を中国に体系的に移転したのは、野尻眼鏡である。同社勤務時代はこの点で随分鯖江産地関係者に嫌味を言われたことを記憶している。1989年に最初の合弁会社を設立し、その後1994年に上海大学嘉定分校(元上海科学技術大学)のキャンパス内に、フレームの組立の工場と日本人寮を建設した。大学内の工場で中国最初のチタン製の眼鏡フレームを製造。形は産学連携。後の話、卒業生(離職者)がその技術を中国に広めたということで、皮肉にも「野尻眼鏡大学」と呼ばれた。卒業生は皆「明日会更好!」と夢があるエネルギッシュな時代だった。一方で、キャンパス内の工場と寮は大学の守衛がいて安全だったが、駐在員が深夜0時の大学の門限を破り、塀を乗り越えるクレームが多発したり、正門前に従業員が日本料理店を出店したりとエピソードてんこ盛りだった。

さて、チタンフレームの生産の話。日本からのチタン材を輸入し、中国人研修生を日本本社に送り、日本のエース級の技術者を上海に送り込む社運をかけたプロジェクト。中国の不安定な電圧によるチタン接合部分が剥がれる「ロウ離れ」のトラブルを克服し、接合部にガスを封入する特殊な治具を開発。プロパーの工場長の後任には、大手メーカーから海外駐在経験豊富な技術畑総経理を招き、2000年頃までには苦労しながらも品質が安定したチタンフレームを生産していた。

その時に通訳兼副総理として、現場を仕切っていたのがA副総経理。中国全土から英才を集めた宝山製鉄所の通訳出身で、日本の小説を一冊丸暗記して日本語をマスターしたと当時の苦労を語ってくれた。日本語もマネジメント能力も極めて優秀。「将来ははたして副総経理の器に収まるかな」と感じたほどで、財務人事管理面で総経理をよく補佐した。A副総経理が辞めたのは、新たに着任した大手メーカー出身の総経理は従来のプロパーの眼鏡生産一筋の総経理とは違い、色んな面での管理が厳しくなり、現場での軋轢が生じてのことだった。海外での管理系人材が少ない地方の中小企業では、財務人事の管理面が手薄になりがちで、大手企業から管理経験が豊富な総経理をスカウトすることはよくあることだが、新たに赴任した総経理はその点本社の期待によく応えた。現在でも本社からの管理強化と現地裁量権のバランスが起因する現地スタッフとの軋轢は、現地化を進める中で悩ましい問題である。とにかく退職した彼は、やはり眼鏡会社を起業したと風の噂に聞いていた。それが何と2年後突然のNHK全国放送でのサプライズな再会。当時他業界でも日本企業で働いてノウハウをマスターした人達が会社を辞め、独自に会社を持ち始めた「ブーメラン現象」が大きな問題となっていた。

技術流出とは、製造情報を蓄積する媒体としての人そのものだったり、設備本体、治具・金型類などのハードウェアやマニュアルなどの紙ベース・電子ベースにより発生する。工場の現場では、以前より治具や金型の紛失盗難が大きな問題となっており、なぜかモノがなくなる。特に独自に開発したノウハウが詰まった治具の流出は、技術模倣を目的としか思えなかった。人的にも物的にも一つ一つの流失が積み重なり、アウエーの勝負の中で外部に流出してピースが揃い「ジグソーパズル」が完成する。そして、地の利を生かした更なる進化と遂げる。2001年当時NHKは、「メイド・イン・チャイナの実力」と言うテーマの切り口として、眼鏡と家電に光を当てたのだった。A氏は、番組に中で以下のように中国製眼鏡の実力を語っていた。

  ・高精度が必要なチタンフレームの設計ソフトは、知人の大学教授に開発を依頼する。

  ・チタンを接合する「ロウ材」は、日本製品を軍事関係の研究所で成分分析をして、中国国内調達する。

  ・工作機械は中国製品を調達する。

  ・使える中国製は何でも使う。「いいものを安く作る」ことにより消費者ニースを獲得する。

  ・中国を必ず眼鏡の生産大国にする。

そして今彼が予言した通り、中国製品が市場を席捲し、世界の眼鏡生産大国となった。チタンフレームは売り出し当時20,000円を超える高級品であったが、現在では価格破壊により、半額以下で中国製チタンフレームを買うことができる。

鉄鋼業では、小説「大地の子」のモデルにもなっている通り日本の技術支援を得て、世界の覇権を握り日本の鉄鋼業の前に立ちはだかる宝山製鉄所は、まぎれもなく日本の製鉄技術が生み出したものだと言われている。鉄鋼と比べ物にならないニッチであるが、眼鏡フレームを巡る中国と日本の物語。その主役は2012年に消えた野尻眼鏡だったと思えてならない。

A氏のテレビ出演は、当時上海での熟練工の引き抜きや治具・金型の盗難に悩まされていた野尻眼鏡に大きなインパクトがあった。そして、テレビ放送より1年後の20028月。上海での野尻眼鏡製品のコピーの製造販売による元社員逮捕に協力したことが、本社役員により上海電視台や新華社などマスコミ6社を招いた花園飯店での記者会見にて大々的に発表された。その模様は地元紙でも大きく報じられた。私は既に同社を離れていたが、「中国眼鏡業界の先駆者としてモラルを守る姿勢を示した」(記事)ことの華々しい発表に何か違和感を感じた。

紙面が尽きました。この続きについては次回といたします。

福井大学 大橋祐之 (2022年4月)