【挿隊的日子~下放の日々~】(3)

三.「万寿山下」~万寿山の麓で~

家に戻った私たちは誰もじっとしてはおらず、各自、楽しいことをして過ごした。

うまい具合に、頤和園がまもなく観光客への開放を停止し、第二の北海公園になるという街の噂が駆け巡っていた(文革開始後の1966年、北海公園は市民の観光を停止していた)。観光の最後の機会に滑り込むため、数日間に頤和園に殺到した観光客は数十万以上に達したという。

私と小学校の同級生も、そこで同窓会をすることにした。

押し合いへし合いする人の中で、カメラを手にしているのは極わずかだった。当時、写真といえばほとんどが観光地の写真屋か街の写真館で撮るものだったのだ。私たちも万寿山の麓の拝雲殿の前で記念写真を撮ることにした。次はいつ来られるかわからないのだから。

撮影の順番待ちをしている時、おもしろい出来事に遭遇した。

列の一番前に並んでいた地方から来た客に、カメラマンが

「何センチの?」

と聞いたところ、その客は不思議そうに

「写真を撮るのに“布の配給キップ”も要るのかね。じゃあ、30cmで」

と言いながら、ポケットからお金と配給キップを出してカメラマンに渡したのだ。

列に並んでいる人の中には耐えきれずに笑い出す者もいた。カメラマンはちらっと横目で見ると、いろいろな大きさの写真見本が飾ってあるガラスの額を指でつつき、

「布キップ?どの大きさの写真を撮るのかを聞いてるんだよ。おのぼりさん」

と面倒くさそうに言葉を投げつけた。するとその客は見本の中の手のひらサイズの写真をおずおずと指さして「この大きさのを」と言った。

そしてお金を払い、撮影ポイントに行くと、まず帽子をまっすぐに被りなおし、人工皮革の黒い鞄を体の前に持ってポーズを決めた。

120フィルム使用の海鴎ブランドのカメラを手にしたカメラマンは前進し、「笑って」と指示し、カシャっとシャッターを切って、「はい、おしまい」。

それからカメラマンは封筒を手渡して住所を書くようにと言った。するとその無知な「おのぼりさん」は、撮影ポイントから動かず、カメラマンに食って掛かった。

「あんたは俺が田舎者だからって馬鹿にするのかい?俺の前に子供を撮った時には、“ガラガラ”って音を鳴らしたのに、俺の時は“ガラガラ”って音がなかったじゃないか。金はきちんと渡したぞ。これじゃ不公平だから、撮りなおしておくれ」

カメラマンは一瞬ぽかんとしたが、口を押さえ笑いながら説明した。

「あれは子供を笑わすためのおもちゃで、あんたは大人なんだから必要ないでしょ」

周りの人は、このおのぼりさんの無知さ加減に吹き出してしまった。腰を曲げる人、笑い過ぎてわき腹が痛くなる人、おなかを抱えてしゃがみこむ人、涙をぬぐう人、鼻提灯が出てしまった人もいた。

当のおのぼりさんはどうしていたかというと、顔を膨らませ、首まで真っ赤になりながら、口ではなおもしつこくブツブツ言っていた。ぐずぐずしているおのぼりさんをその場から立ち去らせるため、当時よく使われていた囃子言葉を、私たち30数人の青年で同時にワーワーと叫んだ。この騒ぎで、そのおのぼりさんは恥ずかしそうに逃げて行った。

もう40年も前のことだ。その頃の写真はとっくにどこかへ行ってしまったが、当時の仲間たちと集まると、いつもこのとっておきの話を笑い話のトリにしている。

何の音沙汰もなく数日が過ぎた。

存分に遊んだし、のんびりもした。生産隊では一度に何人もの働き手がこっそりといなくなったのだから、多くの農作業が滞っているに違いない。俗に「農作業が遅れれば、その年の収穫は期待できない」と言うではないか。それに、私たちの集団帰宅事件の噂が広まれば、生産隊の評判も落してしまう。「知識青年上山下郷運動」転覆のレッテルを貼られてしまったら、誰も責任が取れない。

生産隊は一台しかない耕運機を使い、知識青年上山下郷弁公室の責任者に私たちを迎えに行かせた。生産隊が迎えの「車」を差し向けてきたのだから、私たちもこれ以上意地を張るのはやめるとしよう。成り行きで身を引くとはこのこと。

トレーラーを引いた耕運機は「ドッドッドッ」と私たちを知識青年の宿舎へと直接運んで行った。

生産隊長は歯ぎしりしながら、

「小僧どもはどうも扱いにくい」

と一言だけ言ったが、元気いっぱいな「小僧ども」は、自分が持ち帰った荷物を片づけるのに夢中だった。

大きな事件は小さな扱いにし、小さな事件はなかったことにするという習慣から、今回のことも、誰も言うべきことを言わず、追及はされなかった。

 

(2017/07/25掲載)