【中国あれこれ】『第二十一章 躍進と安定② カップラーメン』

 本日、2026年10月1日。中華人民共和国は建国77年周年を迎えた。年々街の装飾は派手になり、人民が建国を祝う様子もこの20年で大きく変わった。人民の生活は確実に裕福になった。特に食生活は飽食の時代になったと言えるかもしれない。豊かになり、中国文化である会食も食べきれない料理が並ぶようになった。政府は共産党接待規定を制定し、行政機関が絡む宴会は高級食材、高級酒類、過度な量の料理を禁止した。確かに社会主義の原則からすれば行政が考えなければならない事態になっていた。それでも、中国経済の減速化が囁かれる中、街のレストランは週末ともあれば満席になる。そして、家族団欒、友人達の集まり、商用会食などなど目的は異なれ、その様相は皆笑顔で食べきれない料理を囲んでいる。まだ地方との地域格差は残るものの、人民の暮らしは間違いなく豊かになった。しかし、食生活水準が現在のようになった背景には、食品技術の発展と流通改革があった。

 「フゥグアン(幅舘)、今日はこの文章を読解してみよう」
 李剛志は新聞の文化記事を持ってきてそう言った。毎晩のように留学生寮の私の部屋に来てくれて中国語を教えてくれた彼は南京大学文学部英米語学科の3年生だった。彼との出会いは大学の正門横にあった学生相手の丼ぶり一杯僅か人民元5分(当時約8円)の雲吞(ワンタン)屋だった。1979年のことである。小さな店内には粗末な木製の真四角のテーブルと腰掛が三・四か所あるだけだった。昼休みに初めて行った時のことだった。習い始めた中国語はなかなか通じず、店のおばさんの話も訛りが強く理解できなかった。当時の私は一杯のワンタンすら注文できなかった。
 「What do you want to eat ?」背後から声をかけてきたのが李剛志だった。
 「えっ!英語?」突然のことに私はしどろもどろになった。彼は優しい笑顔だった。
 「日本人留学生ですか。ここは初めてですか。ワンタンにはメニューはありません。スープが辛いか辛くないかだけです」第二外国語が日本語だという彼は親切に話しかけてきた。
 店のおばさんはそれを私に尋ねていたのだ。それを機に私は李剛志と仲良くなった。電力不足だった大学の寮は21時半に消灯となった。当時の大学生は原則寮生活だった。真冬を除いては、夕方暗くなると学生は「院子(中庭)」にいくつか灯る水銀灯の下に集まり勉強したが、留学生楼の部屋だけはその制限はなく明るかった。李剛志は私に中国語を教えながら、私の部屋で自分も読書に勤しんだ。
 ある日、李剛志がアルコール濃度50%もある白酒と小菜(つまみ)を持ってきた。生まれて初めて白酒を口にした。喉が焼けるように熱く、鼻に抜ける独特の香りに目を見開いた。
 「ははは、フゥグアン(幅舘)は白酒が初めてなんだね」李剛志は愉快そうに話した。
 「明日は休みだから、街に出て麺を食べよう。美味しい店を紹介するよ」
 「いいね。中国の麺は食べたことがないよ。そうだ、であれば日本から持ってきた麺も食べてみてよ」
 私はスーツケースの中からカップヌードルを取り出した。日本の味が恋しくなった時にと思い、数個持ってきたものだった。
 「これが麺なのか?」李剛志は不思議そうに手に取った。コルク栓のガラスの魔法瓶から熱湯を注ぎ「3分待って」と言って李剛志に渡した。彼は黙ってカップヌードルに穴が空くのではないかというほどに見つめながら3分を待った。そして、神妙な様子で食べ始めた。
「好吃!哇,真的好吃(美味い!わー、本当に美味しい)」李剛志は驚き、何とも言えない笑顔を見せた。
「日本はすごい国だね。こんな食べ物があるなんて。明日、麺を食べに行くのは止めよう。あの店の麺はこんなに美味しくはないから」と笑った。
「これはいくらするの?」
「日本円で100円」
「100円?人民元に換算すると・・・・、えっ?5元もするのか!そんなに高いのか!」
 李剛志は更に驚いた。信じられないといった様子だった。当時5元あれば一家族の一週間分の食費が賄えた。食堂の麺なら60杯、豚肉3キロ、卵なら70~80個を買うことが出来た。
 この時、私は中国が世界最大のインスタントラーメン消費国になることを想像できていなかった。

 康師傅(カンシーフ)。
 今やこの名前を知らない中国人はいないであろう。中国最大手のインスタントラーメンを主体とする食品飲料企業である。1991年、台湾大手食品企業である頂益国際食品有限公司を出資母体し、サッポロ一番で知られるサンヨー食品も出資参画して天津経済技術開発区で「康師傅」は生まれた。現在では年間50億食の生産能力を持つまでに成長した。康師傅の登場により中国の食文化も大きく変化することになる。昨年のインスタントラーメン消費量は約438億食、その内、約200億食を康師傅が占めている。圧倒的なシェアである。
 「ハバ、明日、ラーメン屋に行くぞ」 現法ISUZU CHINAの総経理が言った。
 「明日の昼の話ですか、どこのラーメン屋ですか」
 「天津」
 「はあ? 天津までラーメン食いに行くんですか?」
 「お前は食うことばっかりだな。違う、天津頂益食品公司だ」
 予想通り私が間違えたことに満足したボスは笑いながら言った。
 「ラーメンの小口配送の物流センター構想があるそうだ。サンヨー食品から本社の国内営業本部を通じて話があった。こっちで詳細をヒアリングしてほしいそうだ」
 天津頂益食品、後の康師傅控股有限公司は最新の生産設備を有する巨大な工場だった。生まれて初めてインスタントラーメンの工場を見学した。工場見学コースがガラス越しに整備されていた。明るい清潔空間の中で流れるようにラーメンが生産される工程は圧巻だった。
 現在、康師傅は天津を旗艦工場として中国全土で14か所の生産拠点を持つ。それは、鄭州、西安、武漢、長沙、杭州、南京、福州、広州、重慶、成都、昆明、瀋陽、哈爾浜と北から南まで広域に渡っている。生産開始当時の販売は天津と北京が主な販売エリアだった。広大な中国、全国の小売店への展開は難しかった。物流ネットワークの構築は事業拡大の最大の課題だった。販売チャネルは限られた。この頃はまだ現代的なスーパーマーケット網は整備されていなかった。しかし、康師傅は物流網が整えばカップ麺の需要は必ず急拡大すると確信していた。我々は全国物流ネットワークについて議論した。主要都市に物流センターを展開する構想を日本の例をあげて説明した。しかし、日本の物流システムを中国の物流に置き換えることはあまりに規模が違いすぎた。
 康師傅は全国でのネームバリューを上げるために、北京駅と天津駅構内の売店、長距離列車内でのワゴン販売に重点を置いた。価格は1.9元(約50円)、当時の大卒幹部の平均月給が500元、長距離列車内のちょっと贅沢な軽食として康師傅の名は瞬く間に各地に轟いた。乗客が康師傅のカップ麺を土産にして口コミで広まったのだった。
 その後、康師傅は数か所に独自の物流センターを設置し始めた。工場から物流センターまでは大型トレーラーで輸送し、そこから小売店への配送システム段階的に整えていった。
現在ではどんな田舎のコンビニ、スーパーマーケット、食品商店でも康師傅を扱っていない店はない。

 上海和平飯店から南京路を西に歩き数百メートルの所にあった古い「麺館」で食べた具の無い麺、南京大学学生食堂で食べた白菜しか入っていない麺、北京駐在時代に食べた鶏の油がスープを覆い湯気が立たない「過橋面」、それらはみな美味しく、悠久の歴史に登場するものばかりだった。諸説あるが「麺」はシルクロードを通じ欧州に伝承されたという。俗に言われる麺ロードである。イタリアのパスタもその流れなのかもしれない。人間、美味しいものを食すると笑顔になる。きっと、麺ロードは人の笑顔も繋いだに違いない。
 中華人民共和国建国100年まであと23年、中国はその時、どのような国家をめざしているのだろうか。その歴史的な瞬間を見ることは叶わないであろうが、かつて麺ロードが人々を救い、笑顔を齎すことができたことを忘れない国であってほしいと願うばかりである。

 私は今でもあの日、カップヌードルを食べた李剛志の笑顔を忘れることが出来ない。彼は大学卒業を控えた夏、急性白血病でこの世を去った。
 先日、久しぶりに康師傅のカップ麺を買った。価格は5元だった。

幅舘 章(2026年10月)