上海から「倒春寒」と寒の戻りが伝えられ、大阪で小雪が降る中、難波体育館での大相撲春場所12日目、11時頃に場所入りした。
序二段から結びまで一睡もせず、薄い座布団に座って観戦した。
入社して配属された中国貿易室の先輩女性職員は我々男子四人を「チビッ子ギャング」と呼び、公私に渡る初等教育を施してくれた。三ケ月で東京の中国プラント室へ異動した経緯は以前に書いた通りだが、その後もご縁が繋がって今もご指導をいただいている。
そのかたは退職後、独立開業した本町のカレー専門店を成長させ、自店ブランドのレトルト製品を全国的に販売するまでになっている。
カメラマンの夫君ともども長年に渡る相撲好きで、毎年の春場所を楽しみにされていた。セミナーのチラシを持参し「崑曲イベント」の写真撮影を打診したところ、今年は体調が芳しくなく、撮影はおろか春場所も休場するとのこと。成り行きで土俵下の席を譲り受けることになった。歌舞伎の三人吉三ではないけれど「思いがけなく手に入る百両」にも値する審判長の右隣りの飲食禁止・撮影禁止・応援自粛という厳しい制限のついた席で、落下してくる力士に注意し続ける肩の凝る席でもあった。
1973年4月、日中国交正常化の直後に大相撲協会(武蔵川理事長)北京・上海公演が行われた。北京工人体育館には周恩来首相も駆けつけ、北の富士(現NHK解説者)と琴桜(大関琴ノ若の祖父)の両横綱が応対した。友好ブームが上げ潮の時期であり、パンダまで口を開けば「日中友好」と言いそうな時期だった。それにつけても、偶然とはいえ「富士」と「桜」が東西の横綱というのも出来すぎで、日本にはチビッ子だけでなく、巨漢もいることを知って貰い、隣人からの倭国視線を改めていただく効果はあっただろう。
半世紀前の北京場所を思い出している処に、会議を終えて早退してきた息子が16時からの幕内土俵入りに間に合った。席に座るなり、眼と鼻の先にそびえる化粧まわし姿の大男達に興奮し、〇〇県出身△△部屋という口上を澱みなく呼び上げる係員に感動していた(「完璧ではないが、8割くらいは記憶しているよ」とは口に出さなかった)。予科練帰りの父親が大学の相撲部に在籍していたこと、橿原神宮全国大会に出場したこと、近畿大学の吉村道明が強かったこと、色白で押し相撲得意の「白熊」と呼ばれていたことを問わず語りに聴いた記憶が甦った。その亡父の祥月命日の寺参りをパスして、故人の好きだった相撲場で偲ぶことも供養だと独り合点した。
初日から連勝中だった尊富士が豊昇龍の捨て身の投げに敗れた。千秋楽に続くドラマの始まりであった。
同じ彼岸過ぎの頃、孫娘の小学校卒業記念に本を届けた。
『草原に雨が降る』(WAITING FOR THE RAIN by Sheila Gordon)
1989年3月、めぶん児童図書出版から犬飼和雄の訳で発行。
転居のたびに整理される書物の中で、この本だけは本棚の片隅にひたすら眠り続けた。夜の床で、娘へ読み聞かせながら父子どちらかが眠るまでの小刻みな読書の友であった。
南アフリカ共和国は、17世紀に主としてオランダ人が移住し植民地を作り、原住民のバンツー族の土地を収奪し領土を拡大していったことから始まる。このオランダ系移民がかつてボーア人と呼ばれ、現在ではアフリカーナ―人と言われている。その後、イギリス軍がボーア人と激しく戦い(ボーア戦争・1899年~)、イギリスの支配をきらったボーア人の一部は奥地へのがれ(グレート・トレック)、バンツー族の土地を奪っていった。
奥地のボーア人農場主の甥っ子のフリッキーとバンツー族の少年テンゴとの牧歌的な交流と反目が、苛酷なアパルトヘイト政策への異議申し立ての歴史的潮流のなかで描かれている。
読み聞かせは中断したまま、歳月が過ぎて娘は巣立っていった。
その間、1990年に28年間の獄中生活から釈放されたマンデラ氏の指導による非暴力闘争が、1994年の初の全人種参加選挙による勝利につながった。大統領になったマンデラ氏は白人の旧高官を手厚く処遇し、対立の火種を残さなかったという。
(NHK 100分de名著」・ジーン・シャープ『独裁体制から民主主義へ』テキスト参照)
この春、出版後の歴史的経過を知った上で通読し、新鮮な感動を覚えた。そして、改めて娘の娘に『草原に雨が降る』を読んでもらいたいと届けた次第。差別や格差のなかでの、フリッキーとテンゴの同年齢の少年の話に感じるものがあって、もしも余力と関心があればと魯迅の『故郷』所収の文庫本も押し付けた。
昨年来、陶淵明の雑詩、特に「歳月不待人(歳月人を待たず)」の文言が気になっていた。この春に大相撲や児童書を通して改めて歳月を実感した。花起こしの雨のあと、桜は咲き急いでいる。
(井上邦久 2024年4月)