1999年10月1日、中華人民共和国は建国50周年を迎えた。久しぶりの軍事パレードが行われ、北京の長安街は厳戒態勢が敷かれた。北京天安門前の観閲席は国内外から招待された来賓で埋めつくされ、大規模なパレードに圧倒された。その限られた招待客の中に、いすゞ自動車関和平会長がいた。朱鎔基総理から直々招待されたのである。1994年に始まった中国新自動車産業政策は、技術導入、国産化推進に注力していた。1994年に朱鎔基総理(当時は副総理)から五十鈴(中国)投資有限公司の設立を提案され、日本の自動車メーカーでは初めて100%出資の投資性管理会社を設立して以来、関会長と朱鎔基総理の友好関係は深まった。 (第十一章を参照願いたい)
私は会長の北京滞在中の日程管理を担当した。分刻みの日程であった。関会長の滞在日程は三泊四日、その間で釣魚台国賓館での朱鎔基総理との会談を始め政府要人や自動車工業関係機関との会談が複数組まれた。
いすゞは建国50周年を記念して、中国近代国家建設の為の公共事業に対し、50周年の「五十」、いすゞ自動車(中国名は五十鈴)の「五十」に因み、合わせて50台の大型カーゴトラックとダンプトラックを寄贈することを約束した。
建国50周年記念イベントは、在中国日本国大使館大使公邸でも大使主催の祝賀会が開かれ、関会長も招待を受けた。当時の日本国全権特命大使であった谷野作太郎氏は、外務省アジア局中国課長時代から日中友好に注力した大使として中国でもその名は広く知られていた。
祝賀会で谷野大使は『中国の発展は日本、アジア、そして世界にとって利益である。ただし、その発展は国際社会から祝福される道筋であってほしい』とスピーチしている。1999年は江沢民主席が前年の1998年に訪日した際の歴史問題への強い言及発言により、ほんの一部で反日感情があったものの、その時に調印された「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言」も追い風となり、日中関係は比較的安定し、経済面、文化面での協力関係が強化された年でもあった。その証の一つとして1999年10月1日、当時中国最大級とされた上海浦東国際空港が日本からのODA協力により開港した。当時は中国メディアも「日本ODAによる日中友好の空港」と報道された。2000年という新たな世界に向けて中国もまたギアを上げた。
1996年に新しく建てられた日本大使公邸には日本庭園が施され、来賓の心を和ませた。祝賀会には多くの著名人が招待されていた。私のテーブルにも見覚えのある顔があった。政治家の海江田万里氏、そしてもう一人、敦煌を描いた故平山郁夫画伯だった。その他日本経済界の重鎮がその席を囲んでいた。当時、私は本社中国グループの課長職にあったが、私が同席するにはあまりに格の違う面々に圧倒され、その日、出された料理は何一つ覚えていない。
翌2000年10月、関会長から社長を引き継いだ稲生武新社長が50台の寄贈式典の為に訪中した。私は数人の事務局メンバーと一緒に先行して北京に入った。かつての仲間の北京事務所のメンバーも加わり社長訪中の準備に奔走した。式典に先立ち、当局を通じ政府要人への表敬訪問を申し入れた。
中南海。
それは、故宮の西側に隣接する中国共産党及び中国政府の中枢機関が集まるエリアである。 毛沢東、周恩来、鄧小平などなど歴代の国家最高指導者や当時の国務院指導部の居住区もその中にあった。北京北海公園の南に中海、南海と呼ばれる二つの美しい池があり、その大きな池を囲むように各施設が建っていた。周囲は高い塀に囲まれ、いくつかある門には衛兵が立ち、一般人が入ることは許されない。
50台の寄贈式典を翌日に控え、稲生社長一行は王忠禹国務院秘書長(国務院秘書長は、日本の「内閣官房長官」に相当する副総理クラスの国務院事務統括)を表敬訪問するために中南海の門をくぐった。中南海の中は広く、独立した街を形成していた。昔ながらの黒レンガで出来た居住区、中央党書記執務室が置かれる勤政殿など、歴史を感じる建物と近代的建物が混在し、そのエリア全体が中国の威厳を醸し出していた。
王忠禹秘書長は、朱鎔基総理の下で行政改革や経済政策の調整を担い、1999年には中国電信の再編など、重要な経済政策決定にも関与した総理のブレーンだった。大柄な王忠禹秘書長が会談場所である池の畔に建つ接待楼の入口で出迎えてくれた。
「稲生さん、初めまして。ようこそ中南海へ」
「王閣下直々のお出迎え、ありがとうございます」
「朱総理からもよろしくお伝えするようにとのことです」
入口で挨拶を交わし歴史ある接待楼の中に足を進めた。30分の会談は終始歓迎の雰囲気の中で行われた。
「寄贈頂ける五十鈴のトラックは我が国の近代建設に貢献するものであり、友好の証として全国で使わせて頂きます」
「中国の公共事業に少しでも貢献できるのであれば、いすゞとして誇りに思います」
2000年以降、中国近代化建設は加速的に発展の変貌を遂げる。
翌日午前9時半、我々は人民大会堂の北門から入場した。正面玄関広場には寄贈したトラックが並べられた。人民大会堂を背に大型トラックは北京秋天の陽光に輝いていた。目の前には天安門広場が広がり、一般人も広場から大型トラックが並ぶ様子を何事が起こるのかと眺めていた。人民大会堂正面には赤い絨毯が敷かれた。我々は金色に塗装した木製の大きな鍵を用意した。チャイナドレスを纏った女性が持った紅白のテープが赤い絨毯を横断して両端から張られた。稲生社長を中心に中国自動車工業総公司(自動車産業行政機関)最高幹部にハサミが配られ、合図とともにテープカットが行われ。金の鍵が稲生社長から中国側に手渡された。
中国中央テレビ局他、複数のメディアが取材に訪れた。その日、夜7時のCCTV中央テレビのニュースでは「日本の五十鈴汽車が我が国建国50年を記念し50台の車両を寄贈した」と大きく取り上げられた。
日本の26倍の国土を有する中国の公共事業で50台のトラックは非力だったかもしれない。 しかし、将来の巨大市場に貢献したいという気持ちを少しでも現場に届けたかった。
2月11日が日本の「建国記念の日」であることを知っている日本人は、アンケート調査で2割にも満たなかったというニュースをみた。中国もアメリカも「建国記念日」を知らない人間はほぼいない。この差は何なのだろうか。オリンピックなどスポーツの国際大会で日の丸を掲げ応援することを間違っているとは言わない。しかし、母国の建国の日を知らない時点で同じ応援でも何かが違うような気がしてならない。しかし、そこには日本の建国の定義が定かではないことが起因しているのだと考える。日本は法律上もあえて「建国日」を定めてはいない。2月11日は「建国記念の日」となっている。「の」をいれることで、「建国をしのび、国を愛する心を養う」と根拠法第2条には明記されている。であるならば、中国やアメリカのように国民が母国を愛し、建国を祝える環境を国は作るべきなのではないかと個人的には思う。
毎年、中国の国慶節を見るたびに、国が裕福になってきたことを感じる。経済強国となった中国は今、国家発展に自信を持っているように見える。人民は各地で建国を祝い、笑顔がそれを物語っている。
私が初めて中国の地を踏んだのが1979年、建国30年の節目の年だった。その30年、中国は激動の時代だった。それから46年が経った。
2025年10月1日、建国76周年、各都市では花火が打ち上げられ、建物はライトアップされ、街のあちこちで爆竹が鳴り、建国を祝う装飾が施されることだろう。
国慶節を重ねることで中国が今後も発展することは間違いない。50周年での谷野大使のスピーチにある通り、中国の発展が日本、アジア、そして世界にとって利益となり、共に平和で全ての分野において更に発展することを切に願っている。
幅舘 章
2025年10月1日
