【中国あれこれ】『第十八章 躍進期の始まり ①』

2000年1月1日、私は所謂2000年問題で不具合が生じないかを確認するために出社していた。当時、メディアでは頻繁にコンピュータが00年を1900年と認識して誤作動する可能性があることを報じていたからであった。コンピュータのメーカーもそれを否定しなかったことで、万一に備え対応する企業は少なくなかった。宝くじに一度も当選したことのない私は、年末ジャンボ宝くじの発売時期に行なわれた「元日出社」と言う名誉なくじ引きに見事当選、コンピュータのチェックと中国現法におけるトラブルの有無確認の連絡をとっていた。私同様に当選した他の地域担当者も出社していた。

「中国はハバか」アセアン担当の先輩が声をかけてきた。
「Nさんのところは大丈夫でしたか」
「おう、タイもネシアも無事2000年が表示されて動いている。中国は何かありそうだな」
「ISUZU CHINAも北京事務所も問題ないようです。JVも北京から確認を取らせましたが大丈夫でした。今日はNさんもくじ引きで出社ですか」
「うちの部は東京にいるのが俺だけだったんだよ。しょうがねーから部長に『俺がいきますよ』 って言っちゃったわけ。ハバはくじ引きで当てたのか」
「当てたんじゃなくて、たった一枚のはずれですよ」
「帰りに昼めし食って新年の乾杯でもするか」
「いいですね、一杯やらないとやってらんないっすよね」
お互い笑うしかなかった。
こうして中国自動車産業の2000年が始まった。

中国でも2000年問題の対応は事前に何度もプログラムの修正とテストを行ったことで、国の機関も企業も1日に問題が起きることはなかった。
第9次五か年計画最終年度となる2000年は中国にとって、自動車産業のみならず全ての分野において発展のギアを上げた年だった。1994年に自動車工業を基幹産業にすべく打ち出された新自動車産業政策はその後の五か年計画でも継承されてきた。2001年のWTO加盟に向けて2000年は国際ビジネスの仲間入りをするために必死の準備が為された年でもあった。2001年12月、中国のWTO加盟が承認された。中国の国際事業環境は整った。

第9次五か年計画の中国自動車産業は国家計画委員会と国家経済貿易委員会の両国家機関が夫々に管轄しており、具体的な市場全需計画は経済貿易委員会が策定していたが、その内容に関しては常に計画委員会と対立していた。中国に進出した海外自動車企業は時に、両委員会の政策の食い違いに戸惑った。双方に忖度しながら各社は中国市場展開戦略を作成しなければならなかった。2000年、第9次五か年計画の車両生産計画は実態と大きく乖離した。これを機に第10次五か年計画は国家発展計画委員会(1998年に国家計画委員会から改称)が機械工業部の上部機関として自動車産業政策を掌握することになる。

2001年、第10次五か年計画は初年度から勢いがあった。自動車産業政策は根本的な生産体制の改革期に入った。現在、自動車大国となった中国は、この時点から再スタートと言える発展計画が始まったのである。国営自動車メーカー以外に民族系の自動車メーカーが規制緩和政策により独自の発展戦略を急伸させた。
政策の指揮を執ったのは、後の国務院副総理となる曾培炎、国家発展計画委員会主任(大臣)であった。
曾培炎主任は外資系自動車企業との技術関係強化を各中国メーカーに指示し、自らも積極的に外資系自動車メーカーとの会談等の活動に努めた。

「ハバ、曾培炎がタイ市場の視察に行く。先行してバンコクで受入れの準備をしろ」中国事業室H室長からの突然の指示だった。

2000年、曾培炎主任は第10次五か年計画で執るべき政策を具現化するために動き始めていた。私は中国人脈を持つ先輩社員のT氏、中国出身の後輩社員Z氏と共にバンコクへ飛んだ。政府機関のタイの滞在期間は限られていた。各社、時間の取り合いとなった。
いすゞはタイ工場視察以外に今後の現地生産の方向性、技術譲渡に関し国家発展計画委員会の基本合意を得る為に別途会談の要請を非公開で申し入れた。いすゞは他社の視察が終わった後、敢えて金曜日午後に視察を受入れた。公式に視察する企業に配られた日程では、いすゞ視察の時間は他社に比べ少なく見えた。公式日程はここまでだった。金曜日の夕方便で 曾培炎主任一行は密かにバンコクからプーケット島に向かった。バンコクでは目立つことから、週末をプーケット島でいすゞとの非公式会談に充てたのだった。本社からM副社長がプーケット島に直行した。会談はリゾート地のホテルの会議室で行われた。トップ会談だった。

「幅舘さん、よくここまでアレンジしてくれました。主任も今回の会談には満足しています。ありがとうございました」 いすゞ担当の一行メンバーの処長が言った。その担当処長は面子が保たれたことに喜んだ。
私は裏方で走り回った。観光客がビーチで楽しむ姿を横目で見ながらスーツにネクタイ姿の自分が滑稽だった。いつか家族と一緒に「あちら側」にいると準備した会議室でそう思った。

北京に戻る一行を空港で見送った。曾培炎主任と笑顔で握手を交わした時、曾培炎主任が言った。
「フーグアン(幅舘の中国語発音)、ありがとう。大変充実した視察だった。北京でまた会おう」
自分如き下の者の名前を憶えてくれたことが嬉しかった。

2026年、第15次五か年計画が始まった。1994年以降、各五か年計画全てにおいて自動車産業発展政策は継承されたが、第15次五か年計画では自動車政策が盛り込まれていない。これは中国が自動車大国になったことを確信した証ではないだろうか。

2000年2月5日、新たな世紀を迎えた春節は盛大に花火が打ち上げられ、国家現代化の様相を見せた。それから26年、間もなく中華人民共和国として76回目の春節を迎える。私にとって人生五回目の駐在地嘉興も春節を迎える準備が街のあちらこちらで見られる。年々各地で輝きが増す春節、その輝きが中国の発展を示す光であることに疑う余地はない。

(幅舘 章 2026年2月)