【中国あれこれ】『第十七章 現代中国への道⑯ 漫画みたいな話』

長年、中国に携わっていると日本では考えられない「おかしな経験」をすることがあります。中国事業を担当された方は恐らく、一つや二つそんな経験があるのではないでしょうか。当時の中国は尚更のことで、私もあり得ない経験をいくつもしました。年末のエッセイを寄稿するにあたり、今回は「本当かぁ?」と思われる話を紹介して笑って新年をお迎え頂けると嬉しく思います。

新疆ウイグル自治区、中国の西の果てに位置するこの地域は自然が多く、中央アジアと接する独自の文化を持つ。その大自然の中に天池という湖がある。当時は観光客も少なく、自然のままの正に秘境の湖だった。そして、ここで獲れた魚が私の悲喜劇となる。

1988年10月、私は新疆機電進出口公司と契約した12トントラックの納車の為に当地を訪れた。天津新港で荷揚げされた20台のトラックは鉄道輸送で省都ウルムチに到着した。無事納車され、その晩、輸入者側が私の歓迎宴を開いてくれた。中国はあの広大な国土が同一時間となっているが、実際には北京時間と2時間以上の時差がある。歓迎宴は夜9時頃から始まり、11時過ぎまで行われた。よって新疆の朝も遅い。仕事が始まるのは午前10時から11時くらいになる。
崑崙山脈・天山山脈などの険しい山脈もあれば、灼熱のタクラマカン砂漠まで有する新疆、人種も異なり、中国の特有の大きさを感じるには十分な場所だった。
新疆の特産物の一つに哈密瓜(ハミ瓜)というメロンがある。夏に収穫された哈密瓜は秋に食べ頃となる。クリーミーな甘さと食感が人気のフルーツだった。最近では日本でも食べられるようになったと聞くが、哈密瓜の一番美味しい時期は短く、新疆で食べる哈密瓜は格別だと地元の人が言う通り絶品であった。翌日、私は北京に戻るためにウルムチ空港に向かった。新疆機電進出口公司の部長がクルマで空港まで送ってくれた。
「幅舘さん、これを北京に持って帰ってください。今が一番甘くて美味い物を選ばせました」
一つ7~8キロはあろうかと思う大きな哈密瓜が2つ、大きなずた袋に入れられ、袋の口が縄で縛られていた。
『えっ?これ持って帰るの?』一瞬戸惑ったが、前夜に出された哈密瓜の美味さが勝った。北京事務所の皆に食べさせてやりたい。ただ、ありがたく頂いたが飛行機貨物室に預けるわけにもいかず、サンタクロースのように肩に背負い搭乗した。そして、ここから4時間の悲喜劇が始まる。

飛行機は通路の両側に3人掛けのシートが施された旧ソ連のアントノフ社製だった。前後のシートの幅は狭く、膝が前の席に当たりそうだった。私の席は真ん中だった。足元にサンタクロースの袋を置くと足は止む無く袋の上に載せることになり、膝を抱えるように座るしかなかった。私が座った時には両サイドの席は空いていた。このまま誰も来なければ良いと願った。がその願いは直ぐに打ち砕かれることになる。誰も乗ってくるなと前方を凝視した。
『はぁ?まさか!』 叫びたくなった。前方から鰓(えら)に藁を通した50センチほどの大きな生魚をそのままぶら下げた男がこちらに向かって乗り込んできた。その男は何も言わず、窓側の席を指さした。
『あーぁ、やっぱり』私は一度通路に出て男を通した。男は私の哈密瓜を跨いで窓側の席に座った。出発時間は過ぎている。通路側の席はまだ空いていた。
『来るな』そう願った。
私の隣以外の席は全て埋まった。当時は飛行機の便数も今ほど頻繁にはなく、国内線はどの路線も満席が常だった。
最後の一人が慌てて乗り込んできた。私はその男の様子を見た。手に吊り鐘型をした竹で編んだかごを持っていた。中には窮屈そうに鶏が入っていた。勿論生きている。その男は最後の席に座った。
窓側に生魚、真ん中に哈密瓜、通路側には生きた鶏。現在では許されないであろう持ち込み荷物だった。何とも奇妙な乗客が並んでしまった。
窓側の男が床に置いた魚を持ち上げて言った。
「これは天池の魚なんだ。新鮮で美味いぞ」
「知っているよ。高かっただろう」通路側に座った鶏男が言った。
私を挟んで会話が始まった。
「その袋は何だ?」と魚男が尋ねてきた。
「お客さんからもらった哈密瓜だ」と答えた。
何やら哈密瓜の蘊蓄を話し始めたが、訛りのある中国語はほとんど聞き取れなかった。
左から生臭さが鼻を突き、右から時々小さな羽がフワフワと浮遊する。地獄だ。これから北京まで約4時間の飛行時間を耐えなければならなかった。
空中小姐(CA)が紙コップを配り始めた。紙コップには申し訳ない程度にお茶葉が入っていた。乗客が皆、手に紙コップを持ったまま飛行機は離陸した。その間も私を挟んだ会話が続いていた。飛行機が安定し、シートベルトのサインが消えると、空中小姐が大きなヤカンを持って離陸前に配られた紙コップに熱湯を注ぎに回ってきた。私は魚男の紙コップをリレーした。常識的に考えれば空中小姐が紙コップを受け取って熱湯を注いでから返すのだが、ヤカンが大きいこともあってか、客に紙コップを持たせたまま注ぐのである。しかし、こぼすことなく巧く注いだ。再びリレーして熱湯の注がれた紙コップを魚男に渡した。
「謝謝」魚男は笑顔で言った。次に私が紙コップを差し出した。再び鶏男の膝の上で熱湯が注がれた。その時だった。後方の別の空中小姐が、今正に我々に熱湯を注いでいる空中小姐に何か声をかけた。それに反応した「我が空中小姐」が一瞬声の方向に顔を動かした時だった。紙コップからヤカンの先がずれた。熱湯が鶏男の膝に垂れた。私にはかからなかったが、鶏男が飛び上がった。しかし、シートベルトを外していなかった鶏男はシートから立てなかった。ズボンの膝の部分を引っ張り上げながら何か怒鳴ったが言葉になっていなかった。鶏男の紙コップはどこかに吹っ飛んでいた。
私のコップに注いでいた時に起きた事故、思わず私は「対不起(ごめんなさい)」と謝った。それを見ていた「我が空中小姐」が言った。
「没事嗎? (大丈夫ですか?) 哦没関係(ああ、大丈夫ね)」
大事には至らなかったが、『お前が言うな!』と鶏男は言いたかったに違いない。
しかし、この「事件」で三人は仲良くなった。お蔭で北京までの4時間を飽きることなく過ごせた。当時は携帯電話もメールもない。私は二人に名刺を渡して北京での再会を約束したが、結局二人から連絡をもらうことはなかった。
この話を北京事務所で語りながら、事務所のメンバー全員で哈密瓜を頂いたが、私の話よりあまりの美味しさに全員の笑顔が絶えなかった。
現在では中国でも絶対に考えられない出来事だったが、私はこの時代とのギャップが面白いと思う一方で根底に流れる文化は変わっていないようにも思える。ファジーだった時代、貴重な体験だった。
あの魚男と鶏男、気の良いおじさんだった。今どこで何をしているのだろうと時々国内出張で飛行機を利用すると思い出す。

本年も私の拙い昔話をお読み頂き、感謝申し上げます。昔の日記やノートに記した議事録などを広げながら、80年代から2000年までの当時を回顧してまいりましたが、あの頃の中国は何事に対しても現代化に向かって、「がむしゃらだったなぁ」と嘉興の「月河」に残る清朝の街並みを歩きながら懐かしく思っています。嘉興は私にとって五回目の駐在地なのですが、数百年を語る街に最新型の中国EVが走る様子をみると、また新たな「がむしゃら」を感じています。

来年は2000年代を振り返りたいと思います。どうか引き続きお付き合い頂けますようお願いいたします。 残りひと月、どうぞ、良いお年をお迎えください。