【家庭軼事】~ファミリーヒストリー~(13)

十三.母のこと (その2)

私たちの家は母の勤め先の工場から分配された従業員住宅で、その当時は解放軍部隊家族の区画、幹部家族の区画と工場従業員家族の区画があって、我が家は当然三つ目の区画にあった。工場従業員家族の区画の子供たちは、多くの面で部隊家族や幹部家族の子供たちよりも条件が及ばなかった。

経済状態については、我が家は工場従業員家族の中では特別な部類に属していて、両親の収入は割と高く、私たちの生活は近所の家族に比べると大分ましな方だった。けれども母は私たちを甘やかしたことはなく、困っている人を思いやり、手助けするようにと言い、勤勉節約の良い習慣を身に着けさせた。

今の子供たちは蝶よ花よと甘やかされて育ち、ほんの少しの苦労も我慢できない。外出の時は車だ。歩きでさえなければ、車の種類はなんでもいい。けれども私たちが小さい頃の外出はいつも徒歩だった。

私が小学六年生の時の最後の団体活動は野外訓練であった。

1971年のお正月が過ぎてすぐ、必要な枚数の食糧キップと食費を納め、私と同級生たちは兵士のように背嚢(布団と洗面用具が入っている)を背負い、北京市から少し離れた密雲県へと出発した。往復200㎞近くの距離を自分たちの二本の足で歩いていくのだ。それは私にとって生まれて初めての遠出だった。

出発前、母はいざというときのためにと5元を持たせ、「家にいるときは切り詰めるけど、出かけるときには困らないように十分なお金を持っていくものよ」と教えてくれた。この当時の5元は、一人の半月分の生活費に相当した。

道中、誰かが売店でビスケットなどのおやつを買って食べるとき、漂ってくる甘い香りでつばが溢れてきた。トウモロコシ粉で作った饅頭や茹でただけのさつまいもの食事が何日も続いているので、みんな胃の具合が良くなく、腸の中はガスがぐるぐるしていたし、胃の中の酸っぱい水は逆流してきた。つばや胃液は飲み込んで我慢するしかない。12~3歳の子供だったが、この難関や誘惑は、強い意志で乗り越えるのだ。

ついに私は一銭も使わず、友達からも一かけらのビスケットも貰うことはなかった。自慢ではないが、自分が誇らしかった。

22日間の野外訓練が終わり、私は5元をそっくりそのまま母の手の中に渡した。近所の子供たちは小遣いを使い切ってしまい、足りなくて同級生からお金を借りた子もいたことを知った時、母はなぜお金を使わなかったのかと私にたずねた。私はお金がもったいなかったわけではなく、使う必要がないと思っただけだった。

母はとても喜び、その5元は私の好きに使っていいことにしてくれた。それは生まれて初めての「大金」であった。私は本屋に行って本を何冊か選び、自分の中学入学のお祝いとした。

母は四人の子供たちに対するしつけはとても厳しかったが、むやみに怒ったり叩いたりするようなことはしなかった。

小学四年の冬のことだったと思う。放課後、何人かのいたずらな同級生たちと何キロも離れた通恵河へ遊びに行ったことがある。誰言うとなく賭けをすることになり、私と三人の無鉄砲な同級生が、流れが速く刺すように冷たい通恵河へと飛び込んだ。

その後数日たって誰かが口を滑らしたのか、元は数人の秘密だったのに悪いことは隠しきれないもので噂が広まり、工場の全宿舎の「衝撃ニュース」となってしまった。私は大変なことをしでかしてしまったこと、今度ばかりは逃げきれないことがわかっていたので、母が知ってしまう前に正直に白状した。「自白は寛大に、言い逃れは厳罰に」である。

罪を認めた態度が良かったことと、「初犯」であったことで、母からは「特赦」が与えられた。母はとても厳粛な声で言った。「あの河で毎年何人もの人がおぼれ死んでいるのをお前は知らないの?二度とやりなおせない間違いもあるんだからね。次からは自分でよく注意しなさい」。

本当にあれは非常に危険なことで、後から怖くなってぞっとした。私たち数人の身の程知らずのバカものが事故にあわなかったことは実に幸運だったのである。私はこの事件に対する母の対処の仕方に感心した。罰を与えようと振り上げたムチもまたそっと降ろすという、難しいことをいとも簡単にやってのけたのだ。小学校も出ていない母が、威厳のある態度を見せることができるとは思わなかった。母の教えを私は全面的に受け入れたのである。

十四.母のきょうだいたちのこと につづく