【家庭軼事】~ファミリーヒストリー~⑫

十二.母のこと (その1)

私の母は北京で生まれ育った。本籍は河北省深県で、六人きょうだいの三番目だ。外祖父一人分の給料で大家族を養わなければならなかったので、小学校の卒業を待たずに母は自分の兄や姉と一緒に小さな町工場の雑用をして家計を助けていた。何年もの後、その町工場は公私合営政策によって著名な被服工場に姿を変え、私の母もその流れで正式な労働者となった。

1952年に私の父と結婚し、私たち四人のきょうだいを産み、育てた。

生産規模の拡大のため、工場は北京市内から朝陽門外の東の郊外の呼家楼へ移転した(当時、朝陽区はまだ成立しておらず、朝陽門は祁化門と呼ばれていた)。工場は「中国解放軍後方勤務本部3501工場」と正式に命名され、春夏秋冬の軍服を専門に生産することになった。従業員の総数は2000人を超えていた。私の母は生産ラインのごく普通の縫製工であったが、30年の勤務の中で、軍服の上着、ズボン、軍帽、綿入れのコート、シャツどれをとっても、その縫製の過程で一つの不合格品も出したことはなかった。

この記録は工場全体でも数人しか達成できなかった。私の母の言葉を借りれば、「毎月の70何元かのお給料に申し訳が立つ」とのこと。「先進従業員」の表彰掲示板には母の写真がいつも飾られていた。

家においても、私たちきょうだい四人に対するしつけには少しも手を抜かず、身をもって手本を示してくれる典型的な母親で、冬の綿入れ、夏の単衣、洗ったり畳んだり縫ったり繕ったり、いつでも山ほどの仕事を抱えていた。特に新年や祭日には、私たちきょうだい四人のために灯りの下で新しい服を縫ってくれていた情景は今もまざまざと目に浮かぶ。

「新しい服を着て、新しい帽子をかぶり、提灯を持って、爆竹を鳴らす」これが私たちの子供時代の年越しの記憶である。そのすべては両親の懸命な労働と引き換えに得られたものだった。

私が小学一年生の頃からだったと記憶しているが、母は日曜日になると私たちにご飯や饅頭など主食の作り方やおかずの作り方を教え始め、衣服や靴、靴下の洗い方、寝具の洗い方も教えてくれた。習い始めの頃はしばしば失敗をしたが、母は一度も叱ったり、愚痴をこぼしたりしたことはなく、私たちを励まし、どうしたら上手くできるかを教えてくれた。

初めて烙餅を作った時などはpHバランスの科学的な理屈がわからずに、発酵させる小麦粉の生地に重曹をやたらに入れ、真っ白だった生地を黄色くしてしまった。その上、火が強すぎたために出来たものは焦げる寸前の真っ黒な烙餅になってしまった。

それを見た母は、文句ではなく静かにこう言った。「わからなければ学べばいいの。歩けるようになる前に走ったら転んでしまうでしょ」そして小麦粉の生地にどうやって重曹を混ぜ込むかを教えてくれた。

一度にたくさん入れないで、少しずつ何回かに分けて入れること、重曹が十分かどうかは目と鼻と耳で確かめること、重曹を入れてよく捏ねた小麦粉の生地を包丁で切って断面の気泡が均等であるかどうか見ること、酸っぱいにおいがするかどうか嗅いでみること、生地を叩いた時に高い音が出るかどうか確かめること、そして火が強い時には炭団をいくつか入れて火の勢いを弱めること、もしくは厚めの炉蓋を炎に被せても烙餅を焼くのにちょうどいい火加減になること。その後、この方法でやってみると効果てきめんであった!

私たちが子供の頃はどの商品も極度に欠乏しており、一人ひとりの食糧供給にも制限があった。

私みたいに烙餅づくりに失敗して食料を無駄にするようなことは、近所の子供たちには絶対にありえないことだった。なぜなら収入が少ない大多数の親たちは、子供が食事の支度の練習する時、ほんの少しの失敗やきわめて限りのある雑穀(トウモロコシ粉、コウリャン、アワ)、白米、小麦粉を無駄にすることを大目に見る余裕はなかったからだ。

常に満足に食事のできなかったあの時代、特に男の子の多い家庭ではこのような生活の苦しみをつぶさに経験しており、「育ち盛りの子供のお陰で親の食い扶持がなくなる」と言われていたものだ。食べるものにことかくことは日常茶飯事であり、子供が好奇心からむやみやたらに食事の支度に手を出して、もし食材を無駄にしようものなら、良くてこっぴどく叱られ、悪くすればひどく殴られることは避けられなかった。親から常に怒られたり叩かれたりしている子供たちは「食べたご飯の回数より殴られた回数の方が多い」と自嘲していた。

自分の子供たちが生活の術を学ぶための対価を問題にしない進歩的な母親を持って、私たち四人のきょうだいは幸せだった。

私が一番嫌いだった家事は冬に布団を洗うことであった。それは家の中で最も疲れ、最も辛いものだと思う。

縫い付けてある布団のカバーをほどくのや、縫い付けなおすことは割と楽な方である。水滴が凍ってしまうほどの厳冬に、布団本体とカバーを冷たい水に長いこと浸けおきしてこすり洗いをし、汚れが落ちた後にはきれいな水で繰り返し何度もすすぎ洗いをしなければならない。寝具がすっかりきれいになった時には、両手は強張り、真っ赤に腫れてしまう。この辛さと言ったら本当にやりきれない。

そんなわけで、洗濯機こそが家電の中で最も偉大で愛情のこもった発明だと私は思う。洗濯機は家庭の中の汚れ物を洗う重労働を担ってくれるのだ。松下電器の洗濯機「愛妻号」には「母に捧げる愛」というキャッチコピーが付いていた。洗濯機はこの世の中で最も心温まる製品なのである。

私たちの服が破れたり、ボタンが取れたりした時、母はかならず繕い方やボタンの付け方を教えてくれ、そして「服が破れても繕っておけば人に笑われることはない」という道理を話してくれた。その意味は、人は破れた服を着ている人のことを見下したり笑ったりするけれど、継ぎの当たった服を着ている人のことは決して笑わない、ということだ。

私たち四人のきょうだいがそれぞれ洗濯、食事の支度といった家事をできるようになった時、母は激務だった家事から完全に解放され、「第一線」を退き、口は出すが手は出さないという「楽隠居」の立場になった。

いずれにしても、私たちが身に着けた生活の技は、その後、私が農村に下放された時も、結婚した時も大いに役に立ったのである。

十三.母のこと(その2) へつづく