【北京の二十四節気】処暑-老舎-

●処暑(2016年8月23日曇り 最高気温30℃、最低気温24℃)

処暑の処は“最後”という意味があり、この時期に暑さが終わることを表しています。

今回は、50年前、自らを終わらせた中国の作家老舎を紹介します。

老舎は、1966年8月24日、北京西直門外の太平湖にて入水しました。

《老舎記念館、通りが豊富胡同》

ご存知の方が多いと思いますが、老舎は、生粋の北京人であり、「駱駝の祥子」「四世同堂」等、北京の下町を舞台にした作品を数多く残しました。

前回の立秋で紹介しました王府井遊歩道から北に1ブロック上がった灯市口西街の豊富胡同(※)19号に、老舎の故居があり、現在は彼の記念館となっています。この四合院の家は、新中国が建国された1949年の年末に、彼がアメリカから帰国し、購入したものです。この家で彼は「茶館」をはじめ20作に及ぶ作品を残し、その地位は、全国文学芸術界聯合会・全国作家協会副主席、北京市文学芸術聯合会主席、全国人民代表大会・全国政治協商会議常務委員にまで昇りました。

(※)胡同=中国語では「hu tong」と読み、路地・横丁の意

老舎記念館内。右の福の字は、夫人胡絜青のもの。左側に老舎の銅像(2009年8月24日立)、奥が母屋、左側は息女の部屋。2本の木が見えるが、これは1953年老舎と夫人が植えた柿の木。》

文化大革命は、1966年5月の中共中央委員会の通知から始まったとされていますが、悲惨な暴力が横行したのは、同年8月上旬、毛沢東が紅衛兵に「造反有理(造反は理が有る)」と言い、党幹部をはじめ教師や工場の幹部など上の人間に対する攻撃を支持したときからです。8月18日、毛沢東が天安門で紅衛兵に接見し、四つの「旧」(旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣)を打ち破ることを認めたために、天地を揺るがす狂騒が始まりました。

8月23日、紅衛兵が多数の京劇の衣装や道具類を発見し、旧文化を打ち破ると称して、孔子廟でそれらを燃やそうとしました。しかし、一部のものが単に燃やすだけでなく、北京市文化局も一緒にねじ上げようと言ったために、200名余りの紅衛兵が、北京市文化局に押し寄せました。

前日、老舎は体調不良により入院していた北京医院から退院したばかりでした。しかし、老舎は、医師から安静にと言われたにも拘らず、この日、北京市文学芸術聯合会の事務所に出勤しました。この聯合会の事務所は、北京市文化局と同じ敷地にあったのです。そのため、老舎をはじめとする作家や京劇関係者20数名が紅衛兵に捕らえられ、トラックに乗せられ、孔子廟に連れて行かれました。

処暑とはいえ、残暑の日差しが厳しい中、捕らえられた人たちは、京劇の衣装や道具を燃やす火の近くで、3時間にわたって土下座させられ、暴力と侮辱を受けました。

老舎が孔子廟での暴力からようやく解放され、聯合会の事務所に戻ってみますと、別の紅衛兵200名余が待ち構えていました。老舎の地位が高かったために、今回は、老舎一人を目標に暴力と屈辱が加えられました。老舎は侮蔑に耐え切れず、首に吊るされた無実の罪名が書かれたプラカードを紅衛兵に向かって投げ捨てました。怒った紅衛兵たちが彼を殺そうとしたとき、事務所の人が一計を案じ、老舎は警察で裁かれるべきと言ったことにより、彼は車に押し込められ、警察の派出所に連れて行かれました。車に追いすがってきた女子高生を含む複数の紅衛兵は、派出所の中にまで入り込み、深夜に至るまで彼に暴行を加えました。

家に帰った老舎は、血に染まったシャツを脱ぎ、妻から介護を受けながら、最後の二人だけの会話をします。相手をいたわるいつもどおりの会話であったそうです。翌朝、家人が先に出勤し、最後に残った老舎は、遺書も書かずに、彼が愛した孫娘に、「再見」とゆっくり別れの言葉を告げただけで、家を出たのです……

私は、今年の処暑の10日ほど前、老舎があの日どの道を通ったか全く記録にありませんが、自分なりに豊富胡同の彼の家から太平湖まで歩いてみました。

豊富胡同を出て北に上るとすぐに五四大街にぶつかります。そこを左に曲がり、しばらく行くと左手に故宮、右手に景山公園が見えてきます。さらに真っ直ぐ行くと、文津街に入ります。このルートは、老舎の日頃の散歩コースでした。しかし、あの日、彼は家に引き返すことなく、さらに西に向かったのです。

文津街の橋を渡ると、毛沢東や周恩来が住む中南海です。彼は、中南海を囲む高い壁を見ながら、その中にいる毛沢東や周恩来に救いを求めることを考えなかったのでしょうか、あるいは、考えることを放棄したのでしょうか。

文津街》

さらに西に歩くと、西四にぶつかります。西四には昔ながらの胡同が多く、道は縦横に入り組んでいます。私は、簡明に西四北大街を北上し、途中で左折し、新街口に入り、そのまま西に向かいました。歩き始めてから西直門まで、私の普通の速度でちょうど2時間でした。

当時、バスなどの公共交通もほとんど機能していなかったはずですから、歩く以外に移動手段は無かったと思います。1899年2月生まれで、66歳になる老舎は日頃から杖を使っていました。前々日退院したばかりで、前日はずっと暴行を受け、睡眠もほとんど取っておらず、体がぼろぼろの状態の彼にとって、残暑の中を10㎞前後の道を歩くのは、とても苛酷なことであったと思います。恐らく、歩く時間も、私の倍以上、4~5時間かかったかと思います。

老舎は、これだけの距離を本当に歩くことができたのか、なぜ太平湖だったのか、引き上げられた際、彼の靴下が汚れていず、綺麗だったのはなぜか等々、彼の死には、他殺説が言われるほど謎が多くあります。

太平湖は、西直門を出て、第二環状線(昔の城壁)沿いに15分ほど歩いたところにありました。現在湖はすべて埋め立てられ、北京地下鉄の住宅区になっています。緑の木々に覆われた中に、5~6階建てのアパートが数棟点々とあり、多くの人たちが生活しています。

50年の歳月を経て、中国が急速に経済発展する中、老舎を含めた中国人一人ひとりに深い絶望と大きな不幸を与えた文化大革命という巨大な悲劇は、あたかも何も無かったかのように、人々の記憶からかき消されようとしているみたいです。

私が行った日、木々の中から蝉がやかましく啼いていました。

《太平湖アパート》

文・写真=北京事務所 谷崎 秀樹

★本コラムについてはこちらから→【新コラム・北京の二十四節気】(夏至2016/06/22-空竹)

★過去掲載分:

立秋2016/08/07-王府井

大暑2016/07/22-膀爺(bang ye)

小暑2016/07/07-大清花の餃子

夏至2016/06/22-空竹