【挿隊的日子~下放の日々~】(10)その1

10.「尽力而為」~全力を尽くして~ ①

 

農村で農作業を初めて半年も経たないうちに、私は知識青年専用食堂の管理員となった。

2年余りのこの期間は、もっとも晴れがましい日々だったといえる。帳簿管理、食品加工、買付、食事の手配や料理。食堂に関することはすべて行った。「賢い嫁でも米がなければご飯は炊けない(ない袖は振れぬ)」という諺は誰でも知っているが、あの当時はたとえ米があったとしても「ご飯を炊く」のは本当に大変で、骨折り損のくたびれもうけであった。

 

最も神経をすり減らしたのは「お金」の一言に尽き、もう二進も三進もいかなかった。100人前後が毎日食事をする食堂で使えるお金はたったの30元ちょっとしかなかったのだ。家に戻っていて食堂で食事をしない人への返金を除くと、きっかり30元になる。その中から、一人当たり毎日750g分の米、小麦、雑穀や加工賃に20元近くが必要だから、油、塩、醤油、酢に光熱費や水、野菜は残りの10元でやりくりしなければならない。

一日二食しか食べないとはいえ、一食は窩頭と漬物で済ませるとしても、もう一食はご飯か麺に青菜炒めでもつけた「正餐」を死守したいところだ。あちらを立てればこちらが立たずの情況は日常茶飯事だった。たとえ一分硬貨を半分にして使ったとしても、朝ご飯を食べれば夕飯の分がないという苦しい状態を改善することはできなかった。

 

購買販売協同組合での「ツケ」は当たり前になっていたが、管理員になったからは、なんとかしてツケ払いの問題を解決しなければならない。

食堂の仲間と相談した結果、「支出を減らして、適度に収入を増やす。一部は自給自足で」ということになった。

具体的な方法としては、石炭や小麦粉を買うときには、人民公社の大隊からトラクターを借りて自分たちで積み下ろしをする。こうすれば、元々大隊から派遣されていた作業員やトラクターの費用が節約できる。

小麦を挽いた時に出るふすまの買い取り価格は、製粉工場より近所の馬の飼育場の方がずっと高かったので、ふすまはそこへ売る。そして食堂の前の空き地には野菜を植え、豚を飼う。野菜は自分たちで食べても売ってもいいし、豚も大きく育てれば高値で売れる。

とにもかくにも「やるしかない」のだ。

生活を改善するにあたって、私たちは動物を見習うことにした。豚は鼻で食べ物を探し回るし、鶏は脚で土をひっかいて餌を探す。それぞれのやり方があるということだ。

食堂職員全員の一年間の努力の結果、私たちはついに長年にわたって積もりに積もったツケの代金を完全に支払い終え、食事も大幅に改善された。

 

食堂の仕事の中で最も辛く、汚れ、疲れるのは一年を通して石炭の買付け、製粉と精米だったが、特に厳冬期の雪道はとても緊張した。馬車をひく馬が滑って車が横倒しにでもなったら荷をまき散らすことになる。石炭や食糧が底をついて食事が作れないという緊急事態にでもならなければ、吹雪の中を出かけることは絶対になかった。

 

ところが神さまのいたずらか、冬に入って最初の石炭購入日は雪になった。仕方ない。“雪”が降ろうが槍が降ろうが行くしかない。

夜明け前に布団から這い出して綿入りの服を着込み、毛皮の帽子をかぶって、寒さで縮こまりながら生産隊の馬小屋へ行くと、飼育員はすでに馬車の準備を終えていた。轅(ながえ)に繋がれた馬と副え馬の脚は、滑らないようボロの麻袋で靴下みたいに包んであった。細かな心遣いをしてくれた飼育員には頭が下がった。

何度も何度もお礼を言いながら、片手で軽く鞭を振り、もう片方の手を馬車の前方左端に掛けて勢いよく飛び乗り、御者のまねをして「ハイッ」と声をかけると、きちんと腰かける間もなく馬車は軽やかに走り出した。雪の日の道は滑るので、馬車はゆっくりと走らせなければならない。10キロに満たない道のりをおよそ3時間かけて走ってゆく。足の指先まで凍えて感覚がなくなると、鞭を抱えて馬車から飛び降り、しばらく馬と一緒に歩いた。

 

青年路にある石炭場に着くと、石炭購入簿を出して、規定どおりに1カ月分26元で1tの瀝青炭を2カ月分併せて購入する。代金を払って領収書をもらい、台貫で馬車の風袋重量を量った後、雪に覆われて真っ白な丘にみえる瀝青炭の山の前へ移動する。

積み込み作業を終えて瀝青炭で一杯になった馬車は、再び台貫で計量しなければならないのだが、あまりにも張り切ってしまったので100キロ以上も多く積み込んでしまった。その分はまた元へ戻しておかなければならない。真っ白な雪と真っ黒な石炭。極端なコントラストで目がチカチカしてしまう。どうやら少し欲をかき過ぎた罰を受けたようである。汗と雪とで髪の毛はぐっしょりと濡れていた。

 

帰り道、雪は少しずつ止んできたが、今度は風が徐々に強くなってきた。

道に積もった雪は冷たい風で鏡のようにすっかり凍ってしまい、その上を重量の増した馬車を走らせるのは緊張で冷や汗が出る。お蔭で下着までびっしょりで心底冷え切ってしまった。

そのうちに、のどの渇きと空腹がいっぺんに押し寄せてきた。昔から「のどが渇けば冷たい風を飲み込み、お腹がすけば腹の皮をなめてがまんしろ」と言うけれど、私はまだまだそんな悲惨な状況には至っていない。出がけにポケットに入れてきた凍りかけの窩頭を二つ食べると、気分はだいぶ良くなった。

この時の私の情況は、唐代の大詩人、白居易作の『売炭翁』と何と似ていたことだろう!

     夜来城外一尺雪            昨夜来の雪は城外では一尺も降り積もった

     暁駕炭車輾氷轍            夜が明け、凍った轍の後を踏みしめながら炭を積んだ牛車を御していく

     牛困人飢日已高            街に着く頃には牛は疲れ、炭売り爺さんも腹が減り、陽も高く昇ってしまった

     市南門外泥中歇            市場の南門の外のぬかるみの中で一休みする

 

話変わって、双橋農場が経営する製粉場での製粉作業は、小麦を持参した上にいくばくかの加工賃を支払って標準粉に交換するというものだった。

重さを量り終えた小麦は蓆を円筒状にして作られている貯蔵施設(訳注:サイロのような形状)に入れていくのだが、人が肩に担ぎ、斜めに架けられた渡り板を上っていかなければならない。大きさは大小様々あるものの、製粉場のものは一般に10メートルくらいあった。地上高く架け渡された板の上を、およそ50キロの小麦が入った袋を担いて行くのである。重みで生じる揺れに歩調を合わせていかなければならないが、コツさえつかめば大分軽快に上っていける。

小麦を入れる場所に着き、ギュッと握っていた麻袋の端をゆるめると、黄金色の小麦が滝のように流れ落ちていく。馬車に積める重さには限界があるため、製粉場へは一度に40袋くらいずつしか運ぶことができない。何度となく繰り返されるこの作業のお蔭で、強靭な足腰と重いものを担ぐ力を鍛えることができた。

100斤(=50キロ)の小麦から、85斤の標準粉と15斤のふすまがとれ、加工賃は1元。ふすまは馬の飼育場へ売った場合、製粉場の引き取り価格より100斤あたり5角高かった。 30年以上前の数字は少しの間違いもなく、未だにすらすらと出てくる。

(2018/02/27掲載)