【家庭軼事】~ファミリーヒストリー~④

四.大叔父のこと (その2)

三人兄弟の内、一番下の大叔父は、穏やかで、実直で、勤勉な人だった。

幼い頃から武術の修行をはじめ、素晴らしい技を身に着けた北京でも指折りの武術の使い手であった。二十歳前にはすでに馮玉祥将軍の護衛を務めており、1924年11月、国民政府によって廃されたラストエンペラー溥儀が、馮玉祥将軍の部下である鹿鐘麟によって紫禁城の後宮から追い出される歴史的な場面の一部始終を目撃した。

そして20数年後の1949年1月、天津市が解放されるところも目の当たりにしたのである。

頑なな国民党守備軍は共産党解放軍の和平交渉を拒絶して死闘の道を選択した。それにより戦火の洗礼を浴びることになった都市は、おびただしい死傷者の血の代価を払わされたのだった。

警備司令の陳長捷は戦犯として牢に捕らえられ、その威光を笠に着て横暴を極め、市民を苦しめていた配下の者たちも上官の巻き添えを食ったが、それは自業自得というものである。

一方で、その陳長捷の護衛秘書であった下の大叔父は、在職期間中、意地悪することも悪事も働いたこともなく人当たりが良かったため、多くの市民からの署名が寄せられて、いかなる処罰も受けずにすみ、解放後は北京へと戻った。

素晴らしい武術の腕前を持ち、謙虚で穏やかな人柄である下の大叔父は、武術界では大変な有名人であった。50年代から80年代の中頃まで、全国のすべての武術大会と第3回までの全国運動会の武術大会でずっと審判長を担当していた。

このような権威ある地位にあってもなお、下の大叔父は毎日武術の練習を欠かさなかった。

「武術の練習はさぼってはいけない。一日練習しなければ自分でわかる、二日練習しなければ仲間にわかる、三日練習しなければ素人目にもわかってしまうものなんだ」と下の大叔父は言っていた。これは、武術を学ぶすべての人の尺度をはかる言葉である。

毎日、早朝の3時、4時には、下の大叔父は猪市大街(現在の五四大街)から故宮神武門東側の城壁望楼下の筒子河のほとりまで歩いていき、練習を始めた。

「聞鶏起武(鶏の鳴き声とともに起きて武術の練習をする)」は一般に武術を練習する人を形容する言葉であるが、その時間には下の大叔父はすでに汗びっしょりかいているわけだ。

武術を練習する人の多くはびっくりするような忍耐力を持っているものであるが、下の大叔父は武術の練習を始めたその日から何十年もの間、一日も休んだことがないのだ。

武術の修行というものは人に見せるものではなく、身体を鍛え、暮らしを安定させる「資本」である。もっとも、下の大叔父はとても朝早く、人々がまだ夢の中にいる時間に練習しているので、その姿を目にする機会もなかなかあるものではなかった。

映画やテレビドラマの中で演じられる「カンフー」は、単に芸術や視覚効果のための賑やかしであり、格好がいいだけで実用的ではない。

下の大叔父が担当していた武術大会の審判長は非常勤で、正式な仕事は中華医学会講堂を正常に運営させることであった。

「講堂」と言うよりも、600人を収容する学術報告ホールといった方がいいかもしれない。これは国内外の医学会の相互交流の重要な場所で、ここの水道、電気、椅子、幔幕、音響、映写機など日常の使用とメンテナンスを、下の大叔父一人が「部下のいない司令官」として取り仕切っていた。

下の大叔父が管理していた30数年間は、学術交流の正常な運営に影響するようなミスや事故は一切起こらなかった。

文革の期間、「反動の資産階級である学術界の権威を叩き壊せ」というスローガンの中で、講堂は一切の学術交流活動の停止を迫られ、医学の専門家、学者、教授は「牛棚」へ監禁された。

仕事がなくなってしまった下の大叔父も、「過去に問題がある」ために北京から追われ、衛生部関連の江西省にある「幹部学校」(その実態は労働改造農場)で労働改造を受けることになった。

労働改造の期間、ある真夏の早朝、下の大叔父が五人の仲間と一緒に山あいのあぜ道を歩いていた時、突如山くずれが起こった。

何日も降り続いた雨のためだった。

突然のことで何もすることができず、巨大な力によってあっという間に切り立った山の斜面まで押し流されていった。10数メートルの高さから谷底へ落ちる、というその刹那、下の大叔父は条件反射で運命を決める動きをした。両足に力を入れて傍らの岩を踏みつけ、そのはずみでゴロンと土の上を転がり、すぐさま跳ね起きて素早く危機を回避した。身に着けた武術のお陰で命拾いできたのだ。

数百立方メートルの土石流で五人の仲間は生き埋めになった。三人は救助の甲斐なく命を落とし、生き残った二人の内、一人は脊椎を損傷し、もう一人は骨折し障害を負うこととなった。

九死に一生を得て北京に戻ってからは、引退生活を送るはずであったのに、じっとしておれない下の大叔父は、相変わらず定年退職した職場で活躍した。

文革の終わりとともに、改革開放の波が各界に押し寄せ、全国医療業界の学術交流の窓口である中華医学会学術報告ホールには、未だかつてない猛烈な忙しさがやってきた。

一日に二つの催しがあることは当たり前で、夜にもさらに会議が追加されることすらあった。この膨大な業務量は一般人では引き受けることはできない。このような規模の学術報告ホールが60歳を過ぎた、たった一人の職員で運営されていることを知ると、中外の専門家や学者はみな感嘆した。

下の大叔父を表彰するため、衛生部と中華医学学会は何度も労働模範に選出し、それと同時に業務負荷を減らすため、働き盛りの助手を一人つけてくれた。

ところが、いかんせん若者のことである。高望みしてこんな仕事では我慢できないと、三日坊主を決め込んだ挙句に運転免許を取得して転職してしまった。そのようなわけで、下の大叔父は孤立無援の中でさらに何年か務めた後、名残惜しく思いながらも退職したのであった。

 

※下の大叔父は国民党に加入してはいなかったが、国民党軍の高官の下で働いていたため、文革期の打倒の対象とされた。

五.外祖父のこと につづく