【挿隊的日子~下放の日々~】(10)その3

10.「尽力而為」~全力を尽くして~ ③

 

知識青年食堂での食事の提供や調理に影響のない範囲でという条件の下で、私は知識青年宿舎の雑用も兼務することになった。

例えば、天津産「北京ブランド」の14インチ真空管テレビの真空管が壊れた時のこと。

その真空管は電子部品販売店や酒仙橋一帯の何軒かの真空管工場の小売部門でも買うことができなかったので、仕方なく、山西省大同の半導体計器工場で働いている伯父に手紙を書いて探してもらうことにした。

10日も経たないうちに、「必要な型の真空管は手に入ったが、壊れ物であるため郵便局では取り扱わないと言われた」という返信が来た。これまた仕方なく、一つ7元もしない真空管を受取りに、7元8角の切符を買って、石炭の街、大同へ行くことになった。割に合わないがしょうがない。

大同への出張の効率を高めるため、紹介状や建材調達の書類など、ガラス購入に必要な手続き書類一式を持っていくことにした。ついでに知識青年宿舎に入れる窓ガラスが買えるかもしれないと思ったからだ。

確信は持てなかったが、とにかく当たって砕けろ、である。すると、やはり努力は報われるもので、伯父の友人が尽力してくれたお蔭で、規定の範囲内であるコンテナ二つ分のガラスを購入できた。

ガラスを購入できたのは幸運だったが、このコンテナを北京まで運ぶのがまた一苦労の大仕事である。まずは大八車で北京へ通じている道路まで運び、北京への荷物輸送許可証を持つトラックが通るのを待った。

十数分後、北京への通行証を持ったソ連製GAZ-51が通りかかり、交渉すると運転手は相乗りに同意してくれたので、十人以上の人を呼んできて手伝ってもらい、ガラスの入ったコンテナをトラックの荷台に載せた。

私は、伯父や手伝ってくれた人たちにお礼を言い、トラックの荷台の上から手を振って別れを告げた。

トラックは年老いた牛がボロ車を挽いているみたいに、北京への道をのろのろと進み、かえってガラスが壊れる心配をする必要はなかった。

早朝から夜、そして深夜から明け方にかけて、いくつもの検問所を通過した。すべての証明書を検査員に見せ、その検問所の印を押してもらう。もしも証明書が一枚足りなかったり、手続きが一つでも抜けていたりすれば、押収や指戻し命令を受けなければならないのだ。

300キロ余りの道のりを21時間かけ、やっとこさ無事に到着した。

運転手とその助手に感謝するため、私は10元札を取り出して運転手に握らせた。10元といえば地方では2カ月分の生活費だ。でも、トラックに乗せてもらったお蔭で汽車代が浮いたのだし、ガラス入りのコンテナ二つの輸送費だけでもこの数倍はかかるのだ。惜しくはない。それだけの価値はあった。

知識青年宿舎は、これによって紙が窓ガラス代わりの歴史に幕を下ろし、明るい陽の光がついに部屋に差し込んだ。長年の悩みの種であったガラスの問題は完全に解決されたが、興奮した知識青年たちがガラス窓の生活に慣れるには時間を要した。

何日か休養していたテレビも、新しい真空管に交換すると「通常営業」を開始した。

すべての努力、代価と苦労は報われた。

1977年の年末、我々の知識青年食堂は北京市知識青年先進団体に選ばれた。そして私自身もそれに応じた功労賞をもらった。白地のホウロウカップには、「広闊天地,大有作為」と赤い文字で書かれていた。

 ※訳注「農村是一個広闊的天地,在那里是可以大有作為的(農村は広大な天地であり、そこでこそ大いに活躍できるのだ)」

           1955年に毛沢東の書いた農村に関する文章の一節。60年代には知識青年を農村へ送り出すためのスローガンとなった。

 

(2018/04/25掲載)