2000年、正に中国経済は飛躍期の始まりだった。2001年のWTO加盟は中国にとって国際的経済立国として世界に認知されるために成し得なければならない国家の最重要プロジェクトであった。
近代先進国家を目指した中国は、1992年の鄧小平最高指導者による白い猫も黒い猫もネズミを捉える猫は良い猫だとした「白猫黒猫論」を唱え、西側諸国経済の良いところは取り入れる経済路線を諭した南方講話を契機に、1978年に実践が始まった中国社会主義市場経済を公式に国家の基軸として確立した。国際経済国の仲間入りを目指し、全ての産業において準備段階に入った。そして2000年を迎えたのである。
計画経済からの脱却は簡単ではなかったが、2000年以降、新経済路線により各産業は驚異的なスピードで成長した。特に基幹産業となった自動車業界に対し、政府は多角的に発展的政策を打ち出した。本格的なモータリゼーションが始まった。
2000年の中国自動車全需は約207万台、内乗用車は60万台、トラック・バスが147万台、圧倒的に商用車市場だった。
2000年以降、三大(第一汽車、東風汽車、上海汽車)三小(北京汽車、天津汽車、広州汽車)と呼ばれた国家の自動車メーカー中心の市場は、外資系とのJV化や民営自動車メーカーの台頭により産業構図が変わり始めていた。この時、私には20年後の世界最大自動車大国の姿は見えていなかった。
WTO加盟と自動車産業規制緩和は「保護された計画産業」から「競争を内包した市場産業」へ転換する制度改革を齎した。自動車輸入関税の大幅引き下げや輸入数量制限の撤廃等の輸入自由化と民営自動車メーカー参入の容認は、現在の爆発的成長と世界最大市場化の試金石だった。
同時に三大三小の各メーカーは独自で事業の拡大を行うことになり、その為に必要な外貨は自ら蓄えなければならなかった。各社は動いた。
三大メーカーの第一汽車、東風汽車は商用車を主体としていたが、上海汽車は「上海号」を継承すべく乗用車に注力した。しかし、第一汽車、東風汽車共に外資導入により乗用車生産に乗り出した。この時点ではまだ乗用車需要は発展半ばであった。
「北京事務所から上海汽車が大型トラックの合作について協議したいと連絡がありました」
新規マーケティングを担当していた私は部長に報告した。
「上海汽車?トラックをやるのか」
上海汽車グループ傘下にトラックメーカーがあることを我々は認知していなかった。
当時、外資自動車JV企業は同一カテゴリーの製造会社としては2社までという規制があった。商用車製造において、いすゞ(五十鈴)は既に重慶と江西にJVを展開していた。それに加え2000年2月に広州汽車とのJVで「広州五十鈴客車(広州いすゞバス)」を設立したばかりだった。バスカテゴリーはJV「二社規制」の対象外として設立が認可された特殊ケースだった。その裏には、政府がバス需要に合わせた生産量の確保、しかも良品質の生産を求めたことが背景にあった。(第十四章 バス市場変化をご参考頂きたい)
よって、それ以上に第三の商用車生産拠点が認可されることは原則あり得なかった。
その頃、いすゞは業績悪化に喘いでいた。経営側は何とか下落する株価を安定させるために回復の材料を模索していた。
社長室のS室長から内線で呼ばれた。
「ハバ、ちょっと来てくれるか。話がある」
役員フロアにある社長室へと向かった。社長室とは社長・会長直轄の案件を検討する部署だった。
「上海から大型の合弁の話があったそうだな。中国事業部としてはどうなんだ。検討するのか」
社長室の会議室には同室の後輩Kも呼ばれていた。Kとは私が北京駐在時代に北京汽車と新潟の北村製作所との合弁でアルミバン製造会社を一緒に立ち上げた仲間だった。
「JV二社規制に引っかかるので、基本的には無理だと考えています」私は原則論で応えた。
「何か抜け道は考えられないのか」
「よほど何か中国側に大きなメリットがないと原則は崩せません。難しいと思います」
「上海汽車はウチの重慶と江西の存在を知っていて話をしてきたんじゃないのか」
「いすゞの状況は認識していると思います」
「じゃあ、上海側に何か施策があるのかもしれないよな」
「そこまでは分かりませんが」
「お前のところの部長には話しておいたから、暫く社長室に来い」
「この件、進めるつもりですか」
「ん、この件は社内でも機密案件として限定した人員で調査、検討する。先ずは上海側の意向を確認したい。Kと一緒に検討を始めてほしい」
Kが言った。「ハバさん、また面白そうな案件じゃないですか、やりましょう」
中国事業部特命担当となった私は仕事場を社長室に移し、周囲からは「お前、最近何やってんの?」と言われた。
「中国で商売のネタを探してます」とごまかした。
上海汽車工業(集団)総公司、中国自動車メーカーの中で最初にフォルクスワーゲンとの外資合弁企業を設立した。政府は本格的には高品質の乗用車生産を始めた。
私は上海汽車と連絡を取った。面談の為に大型車商品企画担当と技術部の担当を連れ、指定された場所に出向いた。その企業は上海浦東区にあった。上海匯衆汽車製造有限公司。初めてその企業名を目にした。
上海汽車はこの企業を傘下に置き、第一汽車、東風汽車に対抗する商用車の生産を計画したのだった。『DATON』ブランドの大型トラックを細々と生産するメーカーだった。
面談の相手は上海汽車工業(集団)総公司事業企画部から数名、生産当事者の上海匯衆汽車製造有限公司からは企画から製造部まで各部の幹部が集まった。
初めての挨拶と名刺を交わし、席についた。
上海汽車工業(集団)総公司の幹部が中心に座った。本社のその幹部はまだ若かったが、話すことが全てにわたり優秀さを醸しだしていた。
「ようこそ、上海汽車へお越しくださいました。感謝申し上げます」全員が笑顔だった。何か豪華な食事を目の前にしたような表情だった。食われそうだと思った。
「では、先ず弊社の概要と生産トラックのSPECについて説明します」
先方のプレゼが始まった。
(つづく)
幅舘 章(2026年4月)
