長い時間、中国に携わっていると忘れられない光景が幾つかある。その中でも北京の釣魚台の中の様子は特別だった。
1988年晩夏、北京の夏もそろそろ秋風を感じる頃、いすゞ自動車は将来構想として部品産業の中国進出を睨んでいた。巨大な市場ポテンシャルを秘めた中国は何れ自動車大国になると自動車先進諸国は考えていたが部品企業が進出するには時期尚早だった。
自動車メーカーは部品産業に支えられていると言っても過言ではない。部品は人間で例えるなら臓器や血管に等しい。健康な自動車を作るためには部品の品質は命取りになる。それが故に各部品サプライヤーが中国国産化を決めることは容易ではなかった。先ずは自動車メーカーの中国展開動向を把握し自らの進出メリットを見極める必要があった。既にKD方式で中国での組立てを始めていたいすゞ自動車も高品質の部品を早期に中国で調達することを考えていたが、当時はまだ中国製の部品では要求性能を確保することは難しかった。一社でも日本のサプライヤーに進出してほしいと考えたのは、いすゞのみならず中国で生産拠点を展開する他社も同じであった。
7年後の1995年、いすゞ自動車は日本の部品メーカー数十社の経営者を集め中国自動車市場の視察ツアーを企画することになる。その前哨戦といえるかどうかは、最年少駐在員の私に判断できることではなかったが、当時の飛山社長が大手部品メーカーⅠ社のⅠ社長を伴い、将来の中国自動車産業について政府側と意見交換するために訪中した。
いすゞは政府筋を通し日中自動車産業発展のための意見交換を求めた。中国側から会談の了解が得られた。
政府が選んだ人物、薄一波。
国務院副総理、党中央顧問委員会副主任、財政部長(大臣)などを歴任した中国八大元老の一人である。八大元老とは、1980年代から1990年代にかけて中国共産党内で強い影響力を持つ八人の現役を退いた長老政治家たちである。鄧小平、陳雲、彭真、楊尚昆、李先念、王震、鄧穎超(周恩来夫人)、そして薄一波、全員が中華人民共和国建国の為に毛沢東と共に命をかけた政治家だった。薄一波は経済政策のご意見番として強い影響力を持っていた。
「ポー・イーポ? 本当か? 本当にポー・イーポが会談に応じるのか」ポー・イーポとは薄一波の中国語読みである。私は俄かには信じ難かったが、政府も小型商用車の技術導入をいすゞから受けたこともあり、今後の中国事業に関するいすゞの考えを把握するには一線は退いたものの、経済発展政策に大きな影響を持つ薄一波に白羽の矢を立てたのである。
面談は人民大会堂(国会)福州の間で行われた。先に入室して重鎮の登場を待った。上下真っ白な麻の開襟シャツとズボンのいでたちで薄一波は現れた。髪も眉毛も白く年老いて見えたが、会談時の眼光は鋭く、日中間の経済交流を自動車分野で高めることの重要さを力強い声で説いた。特に自動車部品の品質向上は中国にとっても大きな課題であった。
薄一波の長男、薄熙永は後の中国汽車工業総公司(自動車産業の国家組織)の副総裁となり、海外自動車メーカーは中国自動車産業におけるキーマンとしてその存在を見ていた。次男の薄熙来は大連市、重慶市の市長・共産党委員会書記を務め都市改革で大きな実績を残したが、ライバルとされていた習近平が政権を握ると、汚職で摘発され、現在も北京の刑務所に収容されている。時代の星霜と共に今や薄家を知る人は少ない。
人民大会堂での会談は日中双方の自動車産業の発展に可能性を持たせる案が非公式、非公開で話し合われた。もちろん一企業として出来ることに限度はあったが、その時点で話されたことは現代の中国自動車政策においてその多くが採用されている。
政府から歓迎宴を「釣魚台」で行うことが通知された。
事務所内にどよめきが起こった。
釣魚台という名のレストランではない。国家の迎賓館である。主に国賓の宿泊施設として使用されることが多く、企業のTOPとはいえ簡単に入れる場所ではなかった。
私は社長車の助手席に座り同行した。後部座席から物静かな飛山社長が言った。
「幅舘君、君は釣魚台に行ったことがあるのか」
「いえ、初めてです。私のような者が入れるような場所ではありません」
「そうか、では中がどのような所かは分からないな。楽しみだ」
パトカーの先導で釣魚台の正門に着いた。6人ほどの門衛の警察官が直立不動で敬礼をして迎えてくれた。門を入り、車は奥へ進んだ。見事なまでに剪定された樹木が並んで植えられ、車はそれを両側に見ながら更にゆっくりと進んだ。目の前に美しい庭園が広がった。敷地面積42万平米、美しい湖の周りには調和のとれた大小様々な建物があった。それらは目的に合わせ、独立した「迎賓館」の機能を有していた。我々の車は11号楼の玄関に着けられた。重厚な品のある建物だった。歴史を感じる建物が多い中、ひと際目立つ建物があった。18号楼、総統楼だった。国賓の中でも特別な迎賓館だった。ニクソン、ブッシュ、クリントン、オバマなど歴代米国大統領、そして、1992年に天皇皇后両陛下(現上皇、上皇后)もここに宿泊されている。
迎賓館の説明では、各建物には国宝級の美術品や調度品が飾られているとのことで、11号楼には唐の時代の正に唐三彩の馬が飾ってあった。
「唐三彩の馬が飾ってありました。ご挨拶の時に『馬到成功』という言葉を入れると喜ばれると思いますので、ご挨拶文を一部修正しておきました。よろしくお願いいたします」と社長に伝え挨拶文の原稿を渡した。
とても当時の中国からは想像が出来ない美しい庭園と教育された服務員の優しい笑顔の応対が今も忘れられない。釣魚台国賓館の敷地内には、まだ一般化されていなかった施設や設備が整っていた。スポーツジムには欧米から輸入された器具が揃い、カラオケの設備は日本製だった。釣魚台は約800年前、金朝の皇帝章宗が釣りをする施設として作られたことからその名がつけられたという。それから現代にいたるまで、釣魚台は中国の歴史を見て来た。
他の迎賓館を経験する術はないが、「釣魚台国賓館」の広大な敷地に整備された庭園と調和のとれた建築物は「迎賓」に相応しい他国を凌ぐものであることは間違いないと信じている。それは中国の威厳を賭けた場所であることを迎えられた者は感じるであろう。
この日の歓迎会が盛大且つ有意義な意見交換の宴となったことは説明するまでもないが、現在の中国自動車産業に何か一つでも参考になり継続されているものがあったとするならば、自動車業界に身を置く者として嬉しく思う。
釣魚台の各迎賓館は多くの国家レベルの「会話」を聞いてきた。その中には平和に関する話もあったはずである。広島原爆投下から80年の今日、今後も中国を訪れる国賓が釣魚台で平和を語ることを祈ってやまない。
幅舘 章
2025年8月6日
