【多余的話】『飲水思源』

 1970年代からしばらく、日本でも中国でも好まれた言葉の一つに「井戸を掘った人を忘れない:喝水不忘掘井人」があり、この言葉の魔力のお陰で大きな商談や小さな交渉が円滑に進んだ経験がある。
 この言葉は、元々「飲水思源」という古い成語から発しているようなので諸橋大漢和辞典を開くと「飲其水者懐其源(水を飲めば源を思ふ、その源を忘れない喩)」という北周時代の叟信の『徴調曲』巻六から引用されている。「落其實者思其樹、飲其水者懐其源」の対句後半部分が六世紀から今に伝わってきたが、最近ではこの言葉の使用場面が限られ、水源も枯渇しようとしている気がする。
 井戸を掘った人の一人に高碕達之助(1885~1964)が居る。
「LT貿易」を始めとする日中貿易や漁業協定に尽力した日ソ交渉への貢献で著名な実業家・政治家なので、屋上屋を重ねることなく、郷土愛に満ちた高槻市立図書館のHPに「高碕達之助を知っていますか?」というコーナーが存在することを伝えるに留めたい。
 高碕達之助が茨木中学校(現府立茨木高校)から東京水産講習所(現東京海洋大学)へ進んだのは水産業の大切さを熱心に説く教師に共鳴したからと書いている。同窓後輩の川端康成(1899~1972)、大宅壮一(1900~1970)、井上究一郎(1909~1999)らが東京大学へ進んだことに比べると、水産・缶詰技術の習得や海外研修の方向へ進み東洋製罐を起こした高碕達之助はユニークな存在だと思う。
 もっとも、大宅壮一は茨木中学を除籍されてからも社会運動などに熱心で大外回りをしている。教師が黒板にさらさらと「Rousseau」(ルソー)と書いたフランス語の文字に感動して、仏文科に進み、プルーストの大作の個人訳を果たした井上究一郎もまたユニークだ。
 突出した例として挙げた上記4人が在学していた頃、茨木中学校には加藤逢吉校長が開明的なリーダーシップを奮い、その愛弟子の杉本傳(つたう)が1911年から体育と音楽の教師を務めている。
 地元では、戦前の茨木中学校では、日本で初めてのプールを自分たちの手で掘った、茨木水泳団は飛びぬけて強く、オリンピックにも代表を送った、といった断片的な伝承は伝えられていた。しかしその実態や牽引力となった体育教師の足跡や人となりについては、評伝の著者、大野裕之氏の講演を聴き、著作を読んで多くを知った。
 『デンさんのプール 杉本傳~水泳ニッポンを作った男』(小学館)
 大野裕之氏の母校愛に満ちた文章は素晴らしい。しかしそれだけでなく、学校が保存した「生徒日誌」の膨大な資料や茨木水泳団員の日々のタイム等を克明に記録した杉本家の遺品を、校友や遺族の協力を得て掘り起こした大野氏の実証的な成果にも敬意を表したい。
大野氏の調査に基づく「杉本傳 関連年表」から抜粋して列記する。
1908年:茨木中学を卒業 日本体育会体操学校に入学
1911年 加藤逢吉校長の招請により茨木中学に嘱託教員として着任
    南庭に出来た水たまりを「水泳池」として泳ぎ始めた?
1913年 水泳池修築工事を体育などの授業として生徒たちと掘った
1916年 日本初の近代プール(水泳場)完成
1919年 クロール泳法を研究、導入。水泳場を50mプールに改築
1920年 全国競泳大会で優勝
1923年 温水プールを建設し開放。極東オリンピック大阪大会に
    茨中在学生・卒業生あわせて16名出場。日本チーム優勝
1924年 パリ・オリンピックに水泳チーム監督として参加
    閉幕後、欧州・米国を周遊し水球・飛込競技を研修
1925年 プールに5m飛込台と水球施設を設置
1928年 アムステルダム・オリンピックに飛込コーチとして参加
1932年 ロス(LA)・オリンピックに女子競泳コーチとして参加
1933年 明治神宮体育大会・水球大会でこの年から5年連続優勝
1935年 今に続く全校妙見夜行登山の開始10周年記念碑を設置
1936年 ベルリン・オリンピック 茨木水泳団から2人出場
1938年 東京オリンピック開催権返上 1939年 茨木中学校退任
1985年 茨木高校に「日本近代水泳発祥之地」の碑が置かれた
 水都大阪での川遊びが、茨木でのプール掘り計画と実行に繋がり、大宅壮一が水車を踏み、川端康成が土運びをした。公式プール完成後の茨木中学は大学・高校相手に無敵。米国式クロール泳法を導入研究して、古式泳法から近代水泳へ脱皮するとともに全国に門戸を開き、プールの設計施工やクロール泳法を普及させた。水球普及にも注力したが、戦争に貢献しない「遊び」として白眼視されたとか。戦時下、梅田から茨木郊外に転居し、農業に精を出す一方で、庭にプールを掘っている。還暦の頃の傳さんの遊泳写真が残る。
 イノベーションの概念を教わらずして自家薬籠中のものにした。秘密主義で勝利第一を狙うよりも、技術を共有する仲間が増えることでより高度な競争ができることを若い世代に伝え、慕われている。
 もしかすると、高碕達之助に水産の路を示したのも、井上究一郎にフランス語の美しさを知らせたのも、加藤校長や傳さんではなかろうかと夢想が膨らむがそれは実証的でないので探索は控えたい。

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