【多余的話】『猛打賞』

 先月は『五月の風』と題し大相撲を通じて、朝鮮半島・モンゴルそしてスラブの風の尻尾を綴った。ならば次は『六月の雨』とすべき処、その雨がなかなか降らなかった。

 もともと6月初旬は思うことの多い時期であるが、加えて今年は悩ましい出来事が続いて起こった。戦火、米騒動、著名人の逝去を伝える大きな活字が写真とともに新聞紙面を占拠した。いつもながら大活字の陰で見過ごされた事柄も多かったと思う。地方紙に始まった夕刊発行の休止が、大手全国紙にも波及したこともその一つだ。紙媒体の需要減少、輸送費増加、取材コストの増大などとともに、配達要員の枯渇が直接的な理由のようだ。

 朝起きたら朝刊が届いている、当日後場の株価終値を載せる夕刊紙が配達される、といったシステムは日本独自のものではないかと思う。その基盤に新聞配達業が果たした役割は、苦学生支援の側面とともに見過ごせない。

 山田太郎の『新聞少年』の歌が勤労青少年への共感とともにヒットしたのはちょうど50年前。  1930年代、台湾出身の楊逵が東京での刻苦奮闘生活を日本語で描いた小説『送報伕(新聞配達夫)』を読んだのも50年くらい前だと思い出した。

 夕刊で「長嶋はミスター六大学野球だ」という当たり前のことを野球好きの学者が綴った短文を読んだ。長嶋茂雄(立教)が東京六大学野球の本塁打新記録を作ったことはよく知られている。しかし、それまでの記録保持者が宮武三郎(慶大)と呉明捷(早大)であったとは併記されない。

 1936年に記録を作った呉明捷は、1931年夏の甲子園で準優勝した嘉義農林のエース、映画「KANO」では主人公アキラとして描かれている。戦争を挟んで、長嶋が8本目の本塁打を放った1957年まで呉の記録は破られなかった。

 新聞配達などで生活を維持する楊逵の小説の世界と同じ時期に六大学野球で活躍していた台湾出身者も居たことになる。民博での客家展覧会で彼の野球バットを目にした。

 敗戦まで、夏の甲子園には台湾のほかに朝鮮からも、旧満州国からも地方予選を勝ち抜いてきた学校の記録が残る。

 大連も野球が盛んで、二つ並んだ球場を核にして、社会人や中等野球の強豪校が覇を競い地域の関心を集めたという。

 東洋のパリと称された大連の開放的な空気の中で育まれ、勉強ができても体育は苦手、それでも野球だけは大好きという少年の一人は東京大学に進学し、戦中戦後の一時期を大連で過ごした。野球少年だった清岡卓行は引き揚げの後、
…今でもそうだが、詩を書くだけでは暮らしは立たず、…日本野球連盟に就職し26歳から41歳まで働くことになる。猛打賞を提案し、採用されたのが就職した1949年のことで、その11月に連盟はセ、パ両リーグに分裂した。1951年セ・リーグ事務局に移り、大リーグの研究を行いながらフランチャイズ制を実現したセ・リーグのペナントレース日程を13シーズンにわたり編成した。仕事は楽しかったようである。(岩坂恵子『詩「日直」のなかの清岡卓行』より)

 戦後大連の空白期に結ばれた配偶者が早逝したあとに、詩人が書いた小説『アカシアの大連』で清岡卓行の名は、中くらいの活字で広まった。

 猛打賞は毎日のゲームで何気なくアナウンスされ、特段の注目を集めないが、日本特有の個人賞として1949年以降の記録が残っている(張本の251回、川上・坂本・長嶋・野村と続くが、川上の1949年以前の記録は累計されず、大リーグに移った後のイチローの記録は対象外とされている)。

 清岡卓行には小説『猛打賞』があり、上海駐在時代の同好の士が大切に扱っていた蔵書を特別に借り受け、汚さないように読んだ記憶も懐かしい。戦前の大連の球場跡を訪ねた話も同じ方から教えて貰った。
 7月27日(日)まで神奈川県近代文学館で「清岡卓行展—大連、パリ「円き広場」—が開催されている。『猛打賞』などの資料や画像の展示とともに清岡宛ての石垣りん書簡もあった。和かい文字で穏やかな文面であった。会報139号(2018年1月)に詳しい所蔵資料紹介が載っている。

 NHK「映像の世紀」バタフライエフェクト「激動アジアの隣人たち」シリーズで6月30日に『台湾』特集を放送。
 楊逵と同時代人の詩人・作家の呉濁流の小説『アジアの孤児』(岩波現代文庫)が番組の冒頭とエンディングに取り上げられるはずと番組監修者からお聴きした。

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