『大阪画壇』

行動自粛が続いた春に京都国立近代美術館で大阪画壇に光を当てた展示会が開催されました。いまどき珍しい控えめの料金にもかかわらず、三密もなく入場制限や感染対策も不要で、ゆっくりとした時間を過ごせました。

狩野派が牛耳る江戸画壇や円山応挙が核を作った京都画壇はよく知られています。他方、大坂(阪)に画壇があったのか?という素朴な疑問さえ聞かれ、知名度も低く影も薄い。フェノロサや岡倉天心から評価されず、教科書に載せて貰えないせいなのか「知られざる」とか「不遇の」大阪画壇という寂しい扱いが続いています。そもそも大阪画壇の展示会を京都で開催することも妙な話ですが、大阪で開催するともっと人が入らないのでしょうか。

過剰な期待が外れると逆恨みしがちですが、その反対のケースもたまにはあるようで、今回の展示は愉しかったです。

長崎に渡来した沈南蘋に学んだ熊斐、そして鶴亭の花鳥画の系譜。大坂堀江の木村蒹葭堂のサロンに集った面々の墨跡。「大大阪」の頃の女性画家リーダーの北野恒富や、近代建築が増殖した中之島から川口居留地跡に縁の深い小出楢重の作品もオマケで並んでいました。

しかし、このような素人の不親切な説明では「知られざる」大坂画壇は「不遇」のままになりそうなので専門家の文章に助けてもらうことにします。

・・・鶴亭は長崎聖福寺の黄檗僧で、清の画家の沈南蘋に師事した熊斐に南蘋風花鳥図を学んだ。還俗して京都、大坂に進出。文人画家と交わった。四十代半ばで黄檗山萬福寺に戻り塔頭紫雲院の住持を勤めた。1785年に江戸下谷池之端にて64歳で亡くなった・・・。(神戸市立博物館 2016年4~5月『我が名は鶴亭 若冲や大雅も憧れた花鳥画⁉』展の図録より抜粋)

木村蒹葭堂旧居跡の石碑と案内板が大阪市西区北堀江の大阪市立中央図書館(今は辰巳商会中央図書館とネーミング。大阪市史編纂室所在)の角にあります。実業家・画家・コレクター、更に文人墨客のサロンの中心として著名。古今東西の博物収集は若冲の『動植綵絵』製作のインスピレーションに繋ったと聴いたことがあります。 

数日後、親戚の墓や自分用更地を借りている京都深草の石峰寺へ参りました。春秋の寺蔵品展示会も感染対策の自粛が続いていて、特に今年は本山の黄檗宗祖隠元禅師350年大遠忌法要もネット配信で厳修される程の厳しさの中なので、石峰寺でも伊藤若冲顕彰会員のみが出入りを許される短期間の内覧会でした。

今回はいつもの若冲作品ではなく、鶴亭の屏風絵や「鶴図」を中心とした展示でした。実に安全で静寂な寺の美空間を独占したあと、しばし住職とご母堂から鶴亭についてのご教示をいただきました。

5月は大坂/大阪について、WAA例会でオンライン報告をさせていただく機会があり準備に集中しました。以前に集めた地図や歩き直して撮った画像を盛り込んで『大阪歴史散歩「かやくごはん・てんこもり」』というお気楽なタイトルを付けました。色々な加薬(かやく/具材)を炊き込んだ安あがりの夕食のような内容でした。

道修町から北浜、中之島を歩き、淀屋橋から88番のバスで川口へ。

水にちなむ地名が多く、国貞らによる浮世絵『大坂百景』には多くの水辺の景色が描かれています。そんな「水都」と呼ばれる土地に漢方薬由来の薬業や大和川の流れを付け替えたあとの河内木綿を背景にした綿業が発達し、全国の米・俵物(中国向け海産物)交換市場を持つ「天下の台所」と称された「商都」でもありました。明治維新直後の停滞期をしのいで二十世紀に入ると、東洋のマンチェスターと呼ばれた「煙都・大大阪」の後背地が育ち、念願の築港が完成。東北アジア航路の拡充と北幇(山東煙台中心とした川口華商)の活躍を基軸とした大陸貿易も急成長しました。また、東洋一のアーセナルの大阪砲兵工廠を核に膨張した「軍都」の側面がありました。

戦争末期、この「軍都」を標的とした大空襲により、人家も生産拠点も貿易拠点もほぼ壊滅しました。そこに至る77年間を中心に報告しました。

この報告の資料作りの過程で、外から大阪にやってきた人がリーダーシップを取る事例が多いのではないか?という素朴な印象が生まれました。豊臣秀吉(尾張)、五代友厚(薩摩)、小林一三(山梨)、松下幸之助(和歌山)、横山ノック(北海道)らは保守的な同調圧力から自由であり、斬新なデザインができたような気がします。しかし一方では、大阪商工会議所の創始者の五代友厚、後継の藤田傳三郎(長州)を「都市制圧者・進駐軍」と見なし、近世の高い水準にあった大阪文化を理解しえなかったとする異見も知りました(『大阪の曲がり角』木津川計)。大阪画壇を商家の床の間に押し込めた一因もこの辺りにあるのかも知れないと愚考しています。

しも、この春に藤田美術館が改装され「傳  傳三郎好み」とされる逸品が、照明を落とした人工空間に配置されていま。暗闇でしか見えないものを訪ねるのも一興ですが、改装前の公民館風の佇まいにも味わいがありました。

新装開館の賑わいとは反対に姿を消していく建築物もあります。堂島大橋北詰の莫大小会館斬新モダン設計がお気に入りでした昨今はギャラリーやオフィスそしてカフェが雑居していました川口貿易が華やかな頃には、メリヤス売込商の拠点として、華商との往来が至便の場所でなかったかと睨んでいます。大阪商人を鍛えたのは、北からやってきた華商集団だったとの説を思い起こすと、丁々発止のやり取りの声が聞こえてくるような場所でした。老朽化と非耐震構造を理由に7月で閉館、大大阪の残り香をかぐ機会もあとわずかとなりました。

仕込みが不十分な生煮えの「かやくごはん」的報告となりましたが、関東や海外のみなさんにステレオタイプでない大坂/大阪の一面を伝えることに努めました。菊田一夫の造語「ガメツイ奴」、今東光が創作した「河内悪名」、そしてヨシモト的なアクの強さだけが大阪ではないと、少しでも報告できたとすれば幸いだと思っています。

 

井上邦久 2022年5月)