『三国志 in 日本(続編)』

前回の話の続きです。まず、三国志の人物評における日中の比較から考察してみたいと思います。

前回は、日本の三国志人物の人気ランキングを紹介しました。諸葛孔明、劉備、関羽、曹操…という順になっていますが、実は第3位の関羽は、中国では絶大な「地位」を持っています。日本でお馴染みの横浜中華街には、立派な「関帝廟」がその一角に鎮座しています。この関帝廟はその名の如く、関羽を帝王として祀る廟で、時々孔子を祀る孔子廟(文廟)に対比させて、武廟(ぶびょう)とも呼ばれています。

関羽は、信義や義侠心に厚い武将として名高く、また「三国志演義」での普浄の逸話などから、民衆によって様々な伝承や信仰が産まれ、また後の王朝によって神格化されていった経緯があります。さらに、関羽は塩湖で知られた解県(いまの山西省)の出身で、塩の密売に関わっていたという民間伝承があり、義に厚いとされる事から商売の神として祭られたとも言われています。世界中に華僑が散らばっていったときに、商売が繁盛する様にとその居住区に関帝廟を建てました。そのため世界中の中華街などで関帝廟を見ることができるのです。最近では中国本土でもレストランの入口で関羽の像や置物を結構見かけるようになり、同じく商売繁盛を祈っていると思われます。

さて、日本の方ではどうでしょうか。関羽は立派なヒーローというイメージは変わりありませんが、帝王レベルまで神格化された人物ではありません。むしろ、勇将の一方で、「大意失荊州(油断をして荊州を失う)」のように、傲慢さや敵を軽視したことによってもたらされた致命的誤りも犯した、賛否両論の人物という評判です。関帝を信仰する中国人に怒られるかもしれませんが、日本人は冷静に客観的に評価していると言えます。

 

横浜中華街の関帝廟(筆者撮影)

 

次に、今風の話しになりますが、日本における「三国志」の「イケメンランキング」という評価をご存じですか。もちろん非公式のネット空間に存在しているもので、お遊び半分でご理解下さい。中国には、昔から「少不看水滸、老不看三国」という民間の諺があり、若者は「水滸伝」を読むべからず、年寄りは「三国志」を読むべからず、という言い方をします。なぜならば、若者は「水滸伝」(ひたすらアウトローのヒーローを賛美する物語)を読めば読むほど血が騒ぎやすく、反社会的、暴力的になる恐れがある一方、人生経験の豊富な年寄りは「三国志」を読めば読むほど計略を覚え、ますます海千山千になってしまうという意味合いです。

従って、三国志に出て来た人物はどうしても「謀略」や「老獪」というイメージが強く、年寄りやオジサンの人物像を想像する中国人が多いのは無理もありません。しかし、本当にそうなのでしょうか?

では、くだんの三国志人物「イケメンランキング」を見てみましょう。いかにも現代風ですが、中身を見ていると結構面白いのです。

   第1位.呂布

   第2位.周瑜

   第3位.趙雲

   第4位.馬超

    ……

第1位は天下一の美将、呂布(りょふ)です。「三国志演義」の第5回の登場場面は、以下のようになっています。

…呂布が姿を現した。黄金飾りの三叉束髪冠をつけ、四川産の紅錦の百花袍を着て、獣面呑頭の連環の鎧をつけ、鎧の上から玲瑯獅蛮の腰帯を締めている。弓矢を身につけ、手には画戟を持ち、風にいななく赤兎馬にまたがり、まさしく「人中呂布、馬中赤兎(人のなかに呂布あり、馬の中に赤兎あり)」といった風情である。

 

「呂布の登場」(三国志演義連環画より)

 

また、呂布にまつわるもう一つの物語は、「呂布戯貂蝉(ちょうせん)」で、現代にいたるまで最もポピュラーな語り草です。というのは、あれだけ壮大な場面を書き尽くした歴史小説でありながら、男女関係を描いたのはこの部分しかありません。確かに男性中心の時代背景であり、「三国志」は全編にわたり、それを軸として展開していることから、この部分が如何に貴重であるかはお分かりでしょう。

ところで、貂蝉は実在の人物ではないらしく、呂布も美将なのかどうか、小説の描写から想像するしかありません。しかし、このイマジネーションにこそ人々が魅了されるのではないか、と私は思います。

第2位は、呉の勇将である周瑜です。周瑜は天才的な軍事家ですが、演義世界における指折りの美男子でもあると言われています。さらに、周瑜の妻は小喬と、「沈魚落雁」「閉月羞花」(女性があまりに美しいので魚は沈み、雁は列を乱して落ち、月は雲間に隠れ、花も恥じらってしぼんでしまう)の美貌の持ち主であることから、前記のように男女のロマンスとほとんど無縁の演義世界では、これまた貴重な部分ではないでしょうか。十数年前、日本でも大ヒットした映画「レッドクリフ」では、トニー・レオンが演じる周瑜と、林志玲(リン・チーリン)が演じる小喬で、人々の想像にピッタリのコンビだったのではないでしょうか。 

もう一人の「イケメン」、蜀の将軍、馬超を取り上げてみます。「三国志演義」では、その容姿が「面如冠玉,眼若流星,虎体猿臂,彪腹狼腰」(顔は冠の白玉の如く、眼は流れる星の如く、虎の如き体躯、猿の如き臂、腹は彪の如く、腰は狼の如き)と描かれており、「錦馬超」(きんばちょう)として称えられています。馬超の父親は少数民族の羌族との混血であったため、この血を引いている馬超はクォータの混血で、美男子と想像して良いのではないでしょうか。

最後に、日本でもお馴染みの三国志の諺をいくつか紹介したいと思います。

三顧の礼(中国語では「三顧茅蘆」)。戦略に優れる諸葛孔明をぜひとも登用したい劉備は、三度目の訪問でようやく面会できたエピソードですが、現代では、出馬を粘り強く説得する場合によく使う言葉です。

苦肉の策(中国語では「苦肉計」)。敵をあざむくために、自分の肉体を痛めつけて行うはかりごと。現代の日本では、(転じて)苦しまぎれに考え出した方策という意味合いになっています。一方、中国では元の意味をそのまま継承していることから、ここも日中におけるニュアンスの違いが出ています。

破竹の勢い(中国語では「勢如破竹」)。激しく止めようのない快進撃のことを言います。魏・呉・蜀三国のうち、蜀が晋に代わってからの時代、晋の将軍、「杜預(とよ)」が、呉を攻めることを主張するにあたり、以下のように例えました。

「我らの勢いは竹を裂くようなもので、刀を二三節入れれば、あとは手で割れる」。竹の節と、季節の単位である節を掛け、これまでの勢いのまま進軍すべきと主張したのです。季節が夏になったことで、疫病を防ぐために一度軍勢を引くべきだという意見もありましたが杜預の意見が通り、竹の節のたとえを出して、一気に攻め込むことを決めたのです。この進軍により、晋が天下の統一をやり遂げました。

まだまだありますが、とりあえずこの辺で。

たった1冊の歴史小説ですが、現代にいたるまで後世に伝わり、数々の物語から、登場人物の姿や考え方、エピソードまで、その伝播力は感嘆する他ありません。さらに、本国にとどまらず、アジアさらに世界に広がり、人類共有の財産になっています。今年の年末にもう一度、ゆっくりと読み直したいと思っており、今から楽しみにしています。

〇参考文献

・井波律子『中国の五大小説(上)』(岩波新書、2009年)

・雑喉潤『三国志と日本人』(講談社現代新書、2002年)

 雷海涛(2021年11月)