【挿隊的日子~下放の日々~】(10)その2

10.「尽力而為」~全力を尽くして~ ②

 

食堂の前の空き地を利用するに当たっては、まず整地し、溝を掘り、畔を作り、土をならして、畔ごとに違う種類の野菜を植えた。省力化を図るため、私たちは丈夫で育ちやすく収穫量の多い野菜だけを育てた。例えば、白菜、ニンジン、冬瓜などで、種をまいて芽が出た後は、間引き、移植、水やり、施肥、草むしりといった簡単な作業をするだけで収穫できる。

ナス、キュウリ、トマト、インゲンなど、手間がかかる上に収穫量が少ないものは一切植えなかった。手間がかかるというよりも、誰もが「すぐにもいで食べたい」と思ってしまうから、という方が主な理由だった。

 

野菜の栽培は、育てやすいものを自分たちで選ぶことができたが、豚の飼育の方は少しも怠けてはいられなかった。

ダラダラしている人のことを「喰っちゃ寝の豚みたい」と表現することがある。私に言わせれば、のんびり安穏と育てられた豚ほどまるまる太り、そうなればこそ購買販売協同組合へ高く売れ、お金になるのである。

だから豚はダラダラ怠けていいし、むしろそうすべきなのである。ダラダラ怠けることと、まるまる太るように飼育されることが豚の生きている意義であり全てなのだ。

しかし人間は決して怠けてはいけない。でなければ誰が豚を飼育するというのだ。

 

豚の飼育を始めるにはまず手続きが必要で、購買販売協同組合で統制購入統制販売の「指標」を申請しなければならない。

「指標」には、豚の売買や予防接種状況が記録され、また登記の具体的な日付、数量、重量、飼育場の名称、飼育者の氏名などの情報が記入されている。実際のところは売買契約で、俗称は「豚の戸籍」。

この「指標」を持っているものは、指定された豚の飼育場で生後1カ月ほどの子豚を買い入れた後、獣医ステーションで去勢手術を行い、ワクチン接種をして豚コレラの発生を予防しなければならない。

 

すべての手続きが終わり、丹精込めて子豚の世話をし、早く成長しないかな、と心待ちにする。

子豚を購入基準の大きさまでに育てるには1年くらいかかり、その間、個人であれ集団であれ、誰もこの豚を潰して食べることは許されない。そんなことになったら統制売買破壊、市場供給破壊のレッテルを貼られてしまう。

 

豚を育てるための作業は実にたくさんあった。でも自分たちから進んでこの辛い仕事を買って出たわけで、まさに自業自得。責任は取らなければならない。

餌やりひとつとっても、一日に何度も豚の餌となるごった煮を作り、4、5時間おきに与えなければならない。しかも冬は暖かい餌を、夏は冷たい餌を、といったわがままぶりなのである。

 

子豚たちはのんびりとした日を過ごしながら、だんだんと大きくなっていった。

豚を飼ったことがある人はご存知だろうが、豚の別名は「糞尿製造機」である。豚小屋の掃除は日常のことで、悪臭ぷんぷんの豚の糞は最良の肥料となる。一部は自分たちの野菜畑で使い、残りは生産隊で買い取ってもらう。

 

冬の寒さは豚の成長に影響する。世話が行き届かなければ体重が減り、肉がやせてしまうので、防寒のために豚小屋の中に藁を厚く敷き詰め、捨てられていたビニールを豚小屋の上に掛けて保温した。私たちのこのやり方は、生産隊の豚の飼育場でも真似されて、そこの100匹以上の豚も元気に冬を越した。

ピチャピチャもぐもぐ餌を食べている豚を見るにつけ、彼らの体についた肉が、我々の労働への報酬なのだ、と感じられた。

 

成長した豚は、一部の知識青年にとって目障りな存在となっていった。

豚小屋の前を通るたび、どっしりと太って大きな耳の豚は、どれももう動くのもやっとなのに、それを食べるという願いは叶いっこないのだ。イライラが募るあまり、食い意地が張っている仲間の眼は、「こいつを喰ってやらなきゃ、この怒りは収まらない」とでもいうようにギラギラと光っていた。

 

ついに麦刈りの前、80キロはある、豚小屋の中で一番大きな豚が、知識青年たちから振り下ろされた棍棒で、あの世へと旅立った。

知識青年食堂のために「殉職」した豚は、人に頼んで毛を処理し、お腹を開いて内臓を取り出してもらわなければならない。一しきり忙しく立ち働いた後、豚はきれいに処理され、村の習慣に従って、頭と内臓は屠畜業者に報酬として渡した。

 

肉が食べられることになった知識青年たちの喜びようといったら、ウキウキして飛び跳ねんばかりだった。興奮の渦は村全体を騒がせ、誰かが調子はずれの声で叫んだ。「お~い、公社員のみんな。今日、俺たちは肉を喰うんだぜ!」

 

肉は食べてしまった。さて、後の始末はどうしたものか?

私たち食堂管理員はドキドキしっぱなしだった。

 

まず、購買販売協同組合へ「飼育中の豚が一頭、不慮の事故で死にました」と通知した。

この嘘は、自分自身でも何のひねりもないな、と思ったが、それでも嘘をつき通した。

協同組合の職印は私のたくらみをとっくに見抜いていて、嘘をついても平然としていると、私を非難した。「その豚の秋の売買計画は決まっているのに、どうするつもりなんだ?」

私は胸を叩いて約束した。「今後納める豚の総重量でカバーします!協同組合のメンツは潰しませんし、売買計画達成の足を引っ張ることもしません」

協同組合の主任は見て見ぬふりをして、売買計画変更の手続きを手伝ってくれた。

 

ということで、知識青年食堂の誰もが、これから売り渡すことになっている二頭の豚をますます大切にするようになった。それを見たある知識青年は豚にやきもちを焼いて、私たちがえこひいきしていると責め立てた。

 

とにもかくにも2カ月余りの後、私たちが売り渡した二頭の豚はどちらも85キロを超えており、私は約束を守ったのだった。頭数では任務を全うできなかったものの、重量では計画の「指標」を超えることができたので、この結果には協同組合も満足だったことだろう。

 

私たち知識青年食堂は、豚を売った代金の200元余りと数百斤の飼料用の食糧キップ(豚やニワトリ、アヒルの飼育専用)を手に入れることができたのだった。

 

私たちの食生活は大幅に改善された。

ある者は風船を膨らませたみたいにみるみる太っていき、私もこの時とばかりに「模範飼育員(家畜の餌やり人)」であることを自慢したのだが、本当に飼育上手だったね、とどっと笑いが起きた後、腹を立てた仲間たちに追いかけられ、慌てて逃げる羽目になった。

(2018/04/04掲載)