【天南海北】『1986年はどんな年だったか…』

 また、1年ぶりの再開となり、長くサボったことを深くお詫びします。
 さて、2026年が幕開けとなりました。自分としては、来日して丸40年が経ちました。1986年の1月、当時24歳の私ですが、人生初の海外渡航(飛行機も初)でした。家族や友人の北京空港見送りを後にして、唯一人で成田空港を降り立ちました。その瞬間から、先進国の先頭に立った日本の社会に入り、見たこと(景色や人々)、聞いたこと、感じたこと、何もかも人生初めての経験でした。本当に感無量の気持ちです。
 個人のことはさておき、1986年はどんな年だったのか、いま振り返ってみれば、数々の大きな出来事があった1年だと言えるでしょう。
 まず、1月に起きたアメリカのスペースシャトル「チャレンジャー号」爆発事故です。テレビニュースや特集で、何度もその爆発の映像を流しており、脳裏に切り刻んで消えることがありません。当時は日本語がまだ十分聞き取れなくて、映像の力(乃至報道のやり方)で鮮明な記憶を残っています。

図1 1986年1月、スペースシャトル「チャレンジャー号」の爆発

 次は、同年2月に起きたフィリピンの民主化運動(ピープルパワー革命)とマルコス政権の崩壊でした。そのこと自体は既に多くの人々は知っており割愛しますが、エピソードを一つ紹介したいと思います。時は現在、現フィリピン大統領のフェルディナンド・“ボンボン”・マルコスJr.氏(中国語で「邦邦」と呼ぶ)は1986年に崩壊したマルコス大統領の息子で、独裁者一族の復権と言われています。
 その初代マルコス大統領は、一家を連れて中国訪問をしたことがあります。1974年9月、まだ文化大革命の時期でしたが、毛沢東主席の接見は当時中国では大きなニュースになっています。下の写真はその接見の様子ですが、毛主席の両側にはイメルダ夫人と、当時17歳のボンボンが映っています。
 後日に聞いた話しですが、当時の会見にこんなやり取りがありました。ボンボンは毛主席に「学校のクラスメイト達から、(私が大統領息子のため)疎遠されて悩んでいる」と打ち明けて、毛主席から次の言葉を教えたという:木秀於林、風必摧之、堆出於岸、流必湍之、行高於人、衆必非之。これは三国時代の文人、李康(魏国)の言葉と言われ、日本語の「出る杭が打たれる」に似たニュアンスです。まだ少年時代のボンボンがどこまで理解したか、知る由もありませんが、その噂を聞いた我々は、なるほど~と思っていました。

図2 1974年9月、毛沢東主席から接見を受けるイメルダ夫人とボンボン

 1986年もう一つの大きな出来事は、旧ソ連のウクライナ・ソビエト社会主義共和国のチェルノブイリ原子力発電所で大規模な爆発事故発生(チェルノブイリ原子力発電所事故)です。同年4月に発生したこの事故は既に多くの報告や検証が行われており、詳細は省きますが、1979年の米・スリーマイル原発事故と、2011年の「3・11」福島原発事故と並んで人類にとって大きな教訓となっています。
 さて、1986年の日本はというと、その前年(1985年)の「プラザ合意」により、日々更新の円高と、空前絶後のバブル景気の幕開けの年でした。当時挨拶の合言葉が「株やっているか」、電車待ちの時に傘でゴルフのスイングをしているサラリーマンの姿を見て、バブルと無縁の貧乏留学生の自分から、異様とも言える風景を眺めていました。

図3 バブル狂騒曲の象徴:ジュリアナ東京

 1986年はそんな年だったのか、40年経った今は隔世の感です。もうノスタルジアしかならない自分の記憶ですが、妙に懐かしく感じている今日いま頃です。

雷 海涛(2026年1月)