先月の拙文で触れた黄土高原への「スタディ・ツアー」は、予定通り、8月22日早朝のフライトで北京入りした。今回のために新規作成したパスポートの一頁目に入境スタンプが事務的に押された。かれこれ10年ぶりの旅の目的の一つがあっけなく達成された。
衣類中心の荷物はこれまで通り小ぶりだが、軍手2組、作業靴が加わり、直前に指図のあった防風・防寒衣類を追加した。娘一家からマチュピチュ高原土産の菓子も届いたのでバッグの隅に押し込んだ。
東京からの参加者らと合流して総勢21人が北京首都空港から河北省張家口市へバス移動。
4時間余りで、大阪に比べて標高差1000メートル、最高気温差10℃、最低気温差15℃の黄土高原の一端の張家口市蔚県に到着。
持参した「新華字典」で『蔚』の字を調べると、①yu4:蔚県。在河北省。② wei4:草木茂盛。とあった。独特の固有発音の土地を実体験したことも旅の目的の一つとなった。
ハンディな字典の記述から、この土地は古代には植物が生い茂り、植樹には無縁の土地だったのだろうかと妄想した。
(帰国後に②の語意を更に調べると、キク科多年生草木オトコヨモギ。草木が盛んに茂る様とあり、「鬱」の字にも通じることを
知った)。
翌朝から雨。過去の作業場の一つが整備されて湿地植物園となっている場所を見学した。人の気配のない園内には野良犬が二匹。奥まった東屋(四阿)に宗教系の貼り紙が残っていて少し驚いた。町の食堂に移動し、売店で蔚県特産の黒豆を購入(10元/斤)。
蔚県博物館は戦国時代の「代」国王城、そして「趙」国(邯鄲)の一角を占めた蔚県の古い歴史を丁寧に展示していた。ただ明・清まで下ると幾つかの寺を紹介する程度、ましてや清末民初や1937年以降の被占領期についての展示は皆無であった。これは無いものねだりになるだろうから、ボランティアガイドの大学生に現代史の質問をする野暮は控えた。
(GEN:緑と地球のネットワークのメールマガジンやHPには、複数の専門家や独学者が黄土高原の歴史物語を掲載している)
例年になく雨が多いので観光遊覧は変更が続いた。続いて、受け入れ先との調整が付かなかったとのことで植樹中の地域や農村での交流も急遽中止となった。長年の交流経験と人間関係に基づく準備を重ねた上で受け入れが叶わない以上、それなりの理由があってのことと想像し、新参者は黙して推測を逞しくするばかりだった。
過去には「ワーキング・ツアー」と記録にあるものが「スタディ・ツアー」と変更された理由は、①植樹作業の場所確保が困難、②行政主体の緑化政策が進行、③都市化や風力発電建設が優先、④海外NPOに対応するカウンターパートナーの減少などを推測した。
過去の植樹活動の場所が、行政に譲渡(「無償譲渡」と記念碑に刻字)されて「大同市鉱区植物園」として整備されていた。それらの過去の植樹成果跡の見学を通じて、往時の熱を想像するばかりで、結局軍手や作業靴は汚れないままで持ち帰ることになった。
甲子園球児ではないので黄土を持ち帰ることはしなかった。
「スタディ・ツアー」の観光部分は元々主目的ではないので変更は構わないし、現地の事情も単純ではないだろうから草の根交流が円滑に進まないことも予め想定していた。
後期高齢者が多くを占めるベテラン参加者は濃密な過去を共有している様子が窺えた。全員が初対面だった新参者は同窓会的雰囲気には無理に同調することなく、自己の心身の平穏を保つために、禁酒、摂食、熟睡に努めたので体調はほぼ正常であった。
高齢者のベテラン参加者に交じって小学6年生の細身の少年が植物学者の母親と参加していた。毎朝、朝食が進んでいる様子だったので遠目に様子を窺うだけに留めていた。
蔚県での三日目の夜、地元の人との会食の席でたまたま少年の席が近かったこともあり、お節介にも簡単な通訳をさせてもらった。長年冷凍化していた中国語は円滑に解凍しなかったが、何とかコミュニケーションの役に立てただろうか?
大同での雨の夕方、大渋滞に巻き込まれた。次の目的地、大まかな予定も知らされないままのバス車内の空気は重かった。バッグの隅のマチュピチュ高原の菓子を少年に届けて、しばし気分を地球の反対側に切り替えて貰おうとした。菓子よりも併せて伝えた次の行動予定の情報の方を喜んでもらえたかも知れない。幾分かであっても空気がほぐれて良かった。その夜の会食、無芸大食の我々と異なり、少年は準備してきた自作の絵を全員の前で披露し、見事なプレンテーションを果たした。
おこがましくも「少年を救え」と思っていた者が「少年に救われた」一夜であった。
同じ夜の会合で、河北省張家口市蔚県や山西省大同の特質と変化を教わった。北京との高速道路や高速鉄道の建設により交通が至便であること、昨今は北京も温暖化現象の影響で強烈な猛暑が続いているため、標高差・気温差・物価格差を求めて観光や避暑に訪れる人が増加していることを聴いた。大同に林立する高層ビル、マンション群は今後も増加していき、気温差や物価格差は徐々に狭まるのかも知れない。
8月の拙文で触れた大同の直近25年の新世紀の変化を描いた映画『風流一代(CAUGHT BY THE TIDES/新世紀ロマンティクス)』の世界は更に10年後にどのように変貌するのであろうか?地球温暖化と経済成長の両面から華北の将来を想像するのは容易ではない。
1970~1980年代、アメリカでワールドウォッチ研究所、アースポリシー非営利研究所を設立し、環境問題に関する提言を発信していたレスターブラウン博士は、地下水の汲み上げに頼りすぎると、華北平原は塩だらけの土地に変わる恐れがある、という警鐘を鳴らしていたことを思い出す。その頃は、高速道路網も高速鉄道も無かった。
最終日、大同のホテルで朝食を摂り、高速鉄道で北京市西北口の北京清河駅経由で北京首都空港へ移動。関西空港行きのフライトは天候不良で遅れたが北京空港での待ち時間が延びただけで、北京の街の風に当たるまでのことはできなかった。列車移動の席で「スタディ・ツアー」という言葉を日本語にするとどんな表現が適切か?と考えたが解答は出て来ない。「修学旅行」という訳は、少年以外には馬齢を重ね過ぎていて不向きだろう。
JICAなどの「スタディ・ツアー」の規定に共通するのは、「単なる観光ではないこと」、「現地の人との交流を通じて学ぶ」という考え方だが、実態とは異なることが多いだろう。さらに意識を拡げて、中国社会のヒエラルヒー構造の中で、その末端の役割を果たすように位置づけられているNPO(非営利組織),NGO(非政府組織),ボランティア(志願者)の概念を考えた場合、日本式の概念だけで、「非」や「志願」の実態を知ることは難しいだろう。
今回は上記のことを考える機会を実地体験で与えてくれたことに感謝したい。
帰国するのを待っていたかのように、一回り上の大切な先輩が急逝したとの訃報が届いた。日を置かずして茨城県でのご葬儀に赴き、お見送りをした。
黄土高原で冷えてきた身体が炎天下の喪服を通して熱せられた。
登山家だった先輩は、この冬も富士山に一泊二日のビバークをして鍛錬をしていると聴いていた。尊父・長兄とも長寿のご一族で、自他ともに100歳まではお付き合い願えると楽天的だっただけにショックが大きい。
常々「登山家とは概ね読書家だ」と口にされ、実際に多くの長編を読破しては届けてくれた。本に挟んだ紙片に書きなぐった寸評を読むのが楽しかった。
『免疫の意味論』(多田富雄)、・・・免疫システムの主役はT細胞とB細胞、そのT細胞は胸腺由来であり、胸腺は80歳位でほとんど退縮してしまう・・・老化の大きな要因ですね・・・と他人事のようなコメントを挟んでくれていた。
もう一冊、『大英帝国の盛衰=イギリスのインド支配を読み解く』(木村雅昭) ・・・題名からして嫌いだし、結語も気に食わない。しかし植民地獲得時代の推移が分って面白い。同封した『カルカッタの殺人』も含めて、ランタンリル登山の往復の時に滞在した、デリー・カルカッタでの3週間を思い出す、我が懐かしのカルカッタです。後者には読後の感想を求められていたが、まだ「締切には時間がある」と高をくくって失敗した。
まだ評判になる前のフェルメールのガラスや液体の描写技巧を示しながら、いかに素晴らしい画家であるかについて新大阪から名古屋までの間で話し続けてくれたことがあり、「題名のない音楽会」コンサートの予約手配をして貰い、黛敏郎の解説で芥川也寸志の音楽を聴かせて頂いたこともある。池田満洲男による「写楽はだれか?」という浮世絵セミナーで蔦屋重三郎の存在を知ったのも先輩のさりげない手配のお陰だった。
口癖だった「おさない(未熟な)」30歳代前半の人間を対等に扱ってくれて、新しい世界に誘ってくれたことに感謝して、感謝しきれない。
直属の上司だったが、仕事の記憶はほとんどない。会社になじめなくても楽しみ方は色々あることを教えてくれた恩人であり、個人と組織の距離の取り方をご自身のスタイルで伝えてもらえた気がする。
葬儀から一週間。黄土高原での慣れない環境での疲れのせいか、突然の喪失感がもたらす虚脱状態のせいか、残暑が堪える毎日が続きます。
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