『緒方八重さん』

最高気温が連日新記録を更新して、一気に草木の芽が張る季節が来ました。艸という形に由来する草の字には春が内在しています。そして志貴皇子の歌、「岩走る垂水の上のさわらびの萌え出ずる春になりにけるかも」を思います。

万葉集には「石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨」とあり、ここの佐和良妣は「蕨」か「薇」か?と酒友中国文学者桑山竜平に訊かれた万葉学者の大浜厳比古は『万葉幻視考』(集英社)に啓発に満ちた酒席噺を綴っています。味わいのある酒の上での話を、早くみなさんと楽しみたいです

福沢諭吉も酒豪であったと聴いています。門閥にこだわる中津藩の狭量さに嫌気がさして、蘭学修業先の長崎から故郷中津に戻らず、大坂の緒方洪庵の適塾に直行して頭角をあらわしています。灘や伏見の酒にも馴染んだ諭吉をはじめ、貧しい書生たちの面倒をみたのが緒方八重さんその人です(億川百記の娘、摂津国西宮名塩に生まれ。洪庵が適塾を開いた頃に十七歳で結婚)。

 福沢諭吉の同郷の後輩、田代基徳(陸軍軍医校長などを歴任)は特に貧乏で、按摩で糊口を凌ぎながら猛勉強したとか。常に空腹で、深夜に樽の餅を盗もうとして、八重さんに出くわし夜具を被って隠れていたら、八重さんから掌に沢山の餅を載せて貰ったという逸話を、「中津藩出身の蘭学者」(川嶌眞人『大阪春秋』「緒方洪庵生誕200年特集」号)でとても味わい深く読みました。緒方洪庵の偉業を要約すると、以下の三点になるのではないかと思います。

先ず、適塾を開き福沢や田代のような多くの俊才を育成したことがあります。姓名録の記録だけで637名とのこと。次に、町医師や町人と除痘館を開設して、牛痘種痘の施療とワクチン分苗ネットワーク(池田・伊丹・灘・西宮など)を民間主導で築いたことです。三点目として、1858年のコレラ大流行に際し、長崎の蘭館医ポンペの口授治療法(松本良順訳)に並行して、医訳書『虎狼痢(コロリ)治準』を緊急出版したことが挙げられます。ポンペは阿片やキニーネを大いに推奨しているのに対し、洪庵は使用を否定しているわけではないものの多量な使用には異論を唱えていたようです。

以上の事柄は、古西儀麿『緒方洪庵と大阪の除痘館』(東方書店)などの医学史書に詳しく、また『ぼくらの感染症サバイバル 病に立ち向かった日本人の奮闘記』マンガ:加奈、監修:香西豊子(いろは出版・202112月出版)で楽しく読めます。小学高学年以上からを対象に監修したとお聴きしましたが、緒方洪庵からジョン・スノウ(1854年、ロンドンでのコレラ流行を終熄させた「疫学」生みの親)まで幅広く書かれています。未来からタイムスリップしてきた緒方洪庵の子孫が、中学生と古代から現代までの疫禍の現場に飛んで人々の奮闘を知る筋立てです。

2021年10月『牛の話』で触れた仏教大学香西春子教授の講座は、対面教室で、色々な貴重な医学史料を手にさせてもらい、質疑応答も無制限でした。随分お得な疫学史と公共衛生の入門コースでした。

スペイン風邪の終熄後100年の間、天然痘撲滅を初めとする感染症との奮闘を「征圧」と過信して、感染症用病床を減らし続けた経緯を教わりました。現在も適塾のお膝元で感染症病床の不足が何度も伝えられる背景を考えるヒントになりました。また、西洋医学の日本導入期に貢献したポンペ医師の写真を指し「偉丈夫で胸を張っていますが、意外と若くて30歳前後だったのです」というコメントは新たな発見でした、軍医出身だったポンペが、明治政府の医学・衛生行政にどのように影響したかも考えさせられました。 

緒方洪庵は幕府の奥医師(将軍の侍医)に招かれ、渋々大坂から江戸に移り、その翌年(1863)に八重と九人の家族を残して没しています。文久三年、京の壬生寺に新撰組が屯所を置いた年です。八重さんは遺児や親族の子を幕府及び新政府の欧州派遣留学生として送り続ける一方、戊辰の戦の時には横浜に避難し、その後帰阪して適塾に住んでいます。1873年には除痘館がその役目を終えて閉鎖され、1875年からは八重さんの隠居部屋となりました。適塾は保存対象の建築物となり、その脇の路地を南へ抜けた除痘館跡、大阪市中央区今橋三丁目のその土地には緒方病院ビルが建ち、その4階に除痘館記念資料室があります。

「適塾の偉大さは、緒方洪庵の偉大さによるものであるが、病弱の洪庵と多くの門人たちの世話を一手にひきうけて、門人から慈母のように慕われた八重夫人の内助の功をわすれてはならない。」、これは伴忠康の『適塾をめぐる人々―蘭学の流れ』(創元社)の巻頭に記された言葉です。

明治十九年二月七日、八重さんは62歳で逝去。孫の緒方銈次郎氏の文章によると、「葬儀の式は空前の盛儀を極め、親戚知己を始め適塾門下多数の参列を受けて阿倍野に送られた。葬列の最前列が日本橋付近に差しかかった時、棺は未だ北浜の拙齋宅を出て無かった程に長かったといふことである。」とあります。もともと近場の長柄村で葬儀を行い、北区寺町の龍海寺の洪庵の墓に納骨をする予定が、参会者が予想以上に多く(二千余人とも三千人とも)直前に阿倍野(天王寺村)斎場に変更されています。翌月、福沢諭吉は東京から龍海寺に参り、お供の慶應義塾員の酒井良明を止め、「これは私のすることだ」と自ら墓石を洗いあげた、と伝えられています。

これより先、明治十八年十月二日、五代友厚の葬儀は中之島の邸(現日本銀行)から淀屋橋南詰を東に・・堺筋南へ、住吉街道鳶田より東へ、天王寺村埋葬地へ着す。・・大阪府に於ける紳士縉商と称せられる者は悉く皆会葬し、その数実に四千三百余人の多きに達し、大阪府空前の盛儀を呈したり、と伝記にあります。

井上邦久 2022年3月)