(東南アジア地域レポート)【タイの自動車産業】

 「アジアのデトロイト」と呼ばれ、40年間にわたり日系OEM(自動車メーカー)に依存して成長してきたタイの自動車産業は、現在、構造転換の局面を迎えている。需要構造、競争環境、国内市場のあらゆる変化により、タイにおける日系の自動車関連メーカーは転換を迫られており、経営上大きな影響を受けている。

 日系サプライヤーがこの転換期を生き抜くためには、従来の製造業からモビリティ産業への進化を主導することが求められる。本稿では、タイ自動車産業の現状を分析し、日系企業が取るべき生存戦略として、「Healthy × Strong × Big」モデルと具体的な提言を解説する。

 構造転換の背景として、まずタイ国内市場の停滞と競争環境の激化に触れたい。タイの自動車生産台数は、過去15年間平均約180万台前後で推移しており、成長は停滞傾向にある。また、ASEAN域内において生産台数は最も多いものの、2023年の自動車販売台数ではインドネシアとマレーシアがタイを上回る結果となっている。この状況は、タイ市場が「量の拡大」から「価値の再定義」へと軸足を移す必要性を示していると言える。国内市場においては、構造的な変化が購買力を圧迫している。タイの人口は今後10年以内に減少に転じると予測されており、実質GDP成長率の伸び悩みと家計債務の増加が国民の購買力に影響を与えている。特に家計債務は2024年には16.4兆バーツに達するなど高水準で推移しており、自動車ローンにおける要注意ローン(SML)や不良債権(NPL)比率も高水準の状況である。これにより、消費者の購入決定が遅れ、自動車購入が抑制されている。さらに、自動車に対するユーザーのニーズが、「所有」から「利用」へと大きく変化していることも挙げられる。ライドシェアリングサービスの急成長はその象徴であり、タイのライドシェアリング・プラットフォームのユーザー数は、わずか7年間(2018年~2025年予測)で240万人から1,100万人へと5倍近くに成長すると見込まれており、これは自動車需要構造そのものを変える「モビリティ革命」と言える。

 一方、日系メーカーは、グローバルなEV化の潮流と、政府の強力な支援を受けた中国系企業や非自動車メーカーなどの新規参入により、多方面からの競争に直面している。タイ市場全体の新車販売台数では、依然として日系メーカーが中心(2025年1~9月で約69.8%)だが、同期間における新規BEV(乗用車)登録台数では、中国系が約9割(89.8%)を占め、圧倒的な存在感を示している。これは、EV市場の急速かつ継続的な成長が、従来のICE(内燃機関)中心のビジネスモデルに依存してきた日系部品メーカーにとって、「顧客構造の変化」という最大の経営インパクトをもたらしていることを意味している。この急激な変化に対応するため、日系サプライヤーは、EV移行に必要な技術革新の不足や、EVなどの将来技術に適さない時代遅れのサプライチェーン構造といった重要な課題に直面している。

 このような状況の下、タイでは近年、事業再編や国外への工場移転・撤退の動きが加速している。例を挙げると、 2024年には、スズキが四輪車工場の閉鎖を決定し、スバルもタイ工場閉鎖を発表。 同年、ホンダはアユタヤ工場の自動車生産停止とプラチンブリ工場への生産集約を発表。 日産は2025年にライン統合を完了。売上高が75%に減少すると事業再編の目安となり、60%に減少すると国外移転・撤退の必要性が出てくると言え、多くの企業が厳しい選択を迫られている。

 さらに、タイの自動車生産台数100万台あたりの部品サプライヤー数(1,623社、2024年)は、インド(915社)や日本(722社)と比較して非常に多く、生産効率が低いことが示されている。仮にタイがインドや日本並みのサプライヤー比率を採用した場合、現在のサプライヤーの半数以上が持続不可能になる可能性が高いと分析される。

 日系サプライヤーは、生産効率と技術転換の両立という難題に直面しており、「淘汰か進化か」が問われている。今後の勝者となるのは、Healthy(健全)に経営し、Strong(強く)事業を拡張し、Big(大きく)統合する企業である。まず Healthyだが、強固な財務健全性を実現するためには、効果的な財務管理が不可欠である。4つの主要な財務的側面(キャッシュフロー、収益性比率、流動性比率、支払余力比率)について、積極的なモニタリングと管理が必要となる。次に、 Strongについて、「強固」であるためには、自社のコア技術を核としつつも、必要な能力を迅速に獲得するための自社開発とJV(ジョイントベンチャー)・M&Aの両者を検討することが重要である。従来の「自社資産のみで事業開発を行う」手法から脱却し、他社の資産と組み合わせて事業開発を行う戦略が求められる。特にモビリティ市場では、車両はよりコモディティ化し、ソフトウェアが主要な付加価値要素となりつつある。企業はコネクテッドや自動運転といった分野に焦点を移し始めており、日系部品メーカーは、オートメーションシステム、電子部品、ソフトウェア、EV部品、カーシェアリングといった新規領域の専門分野を獲得するために、外部資産を積極的に活用すべきである。最後にBigについて、タイのサプライヤー過多の状況を鑑みると、規模の経済を実現するため、統合的なスケールアップに注力する必要がある。単に業務効率を高めるだけでなく、統合を通じて規模を拡大することは、固定費の分散、一括購入によるコスト削減、効率の向上、オーバーヘッドの削減、資本へのアクセス向上といった効果をもたらし得る。

 タイ自動車産業の主戦場は、もはや製造ラインにあるのではなく、「バリューチェーンの再設計」にある。日系企業には、タイを「アジアのモビリティ・イノベーション拠点」と位置づけ、製造業からモビリティ産業への進化を主導することが強く求められる。これを実現するための具体的な提言は次の4点である。1. サプライチェーンの再構築: EV時代に対応し、付加価値の源泉がソフトウェアやサービスへ移行する中で、既存のサプライチェーンを見直し、再設計すること。2. 現地共創の深化: タイ投資委員会(BOI)や現地の大学、ローカル企業と連携し、オープンイノベーションを推進すること。3.データ×サービスによる価値創造: 車両データや顧客接点などのアセットを活用し、移動の利便性を提供するB2B/B2Cのモビリティサービスモデルを構築すること。4.ファイナンスと組織の再強化: 「Healthy × Strong × Big」モデルに基づき、健全性、強靭性、拡張性を備えた経営基盤を確立すること。

 タイの自動車産業は、ハードウェア製品を提供する時代から、「ソフトウェア+サービス」を提供するモビリティ時代へと突入している。日系企業にとって、この転換期は試練であると同時に、強固な基盤と外部アセットの活用によって、アジアのモビリティ市場での新たな価値を創造する大きな機会となり得る。

香月 義嗣(2025年11月)