10月となり、ようやく風を爽やかに感じ始めた。
10月は誕生月であり、幼年期の誕生日に食べた赤飯と栗の入った茶碗蒸しを思い出す。今でもコンビニで赤飯おにぎりを選ぶとき、幼年期まで僅かに射していた生家での余光を偲ぶことがある。
中国在住の人たちから「今年は国慶節と仲秋節が重なり8連休となったので」と当然のように海外旅行や国内ドライブの話題が届き、景気の影響も人により色々かなと思う。
横浜の中華街に棲んでいた十年前には、1日と10日に建国記念の祝賀行事が行われ、華やかさや賑やかさの中での分断の一端を「中華街たより」として綴ったことがある。
10月26日まで東京国立近代美術館(竹橋)で「記録をひらく、記憶をつむぐ」と題するコレクション展が静かに開催されている。タイトルも抽象的であり、会場に掲示されたポスターも松本俊介の地味な絵をベースにした控えめな印象。この展示会の開催をあまり多くの人に知られたくないのか、そっと静かに終わらせたいのではないか、と訝りながら会場に入ると意外にも多くの人が静かに並んでいた。
占領下GHQに没収された戦争記録絵画。1970年に米国政府から「無期限貸与」され、東京国立近代美術館が一括して保管している作品を中心とする展覧会。その多くが1941~1944年の制作とある。
藤田嗣治、宮本三郎、小磯良平、猪熊弦一郎らの大作が並ぶ。いくつかは常設展などで目にしたことがあった。今回は「女流美術家奉公隊」による『大東亜戦皇国婦女皆働之図』春夏の部(福岡市筥崎宮所蔵)と秋冬の部(靖国神社遊就館所蔵)の二作品を一度に見る機会を得た。
戦後に東京芸術大学となるまで公立美術学校に女子の入学は認められず、1900年創設の「私立女子美術学校(女子美)」が唯一の美術専門の学校組織であったようだ。
社会通念として、日本画は中上流階級女性の「たしなみ」「お稽古事」と許容され、大阪の日本画グループでは島成園、木谷千種らが存在感を示し、「関西女子美術学校」を1934年に創立している。
反して、洋画は「男の仕事」「貧しいペンキ屋」といった表現で女性に対する偏見の対象とされた時代が続いたようだ。それでも同じ1934年に、東京では在野の洋画団体に出品していた三岸節子らが中心となり「女艸会」を立ち上げている。
戦前に三岸節子とともに女流洋画家グループの中核を担った女性に長谷川春子がいる。
東京府日本橋区通油町1丁目(現在の東京都中央区日本橋大伝馬町3丁目)の生まれ。
通油町は日光街道に面して商家が並んだ繁華な町だった。現在も盛業中の刷毛ブラシの「江戸屋」の当代が代表として祭りや「べったら市」の元締めを務めておられる。
東京勤務の頃には同じ界隈の商業ビルに職場があり、江戸の三宅草双紙屋の流れを繋ぐ三宅書店と近所付き合いでお世話になったり、伊勢出身の小津紙店を覗いたりした。その頃には耳にすることが少なかった蔦屋重三郎の「耕書堂」も日光街道に面しており、今年大河ドラマの影響でにわかに説明板や記念品ショップが出来ている。
その日本橋通油町で、長谷川春子は弁護士の草分けの父と御家人の家育ちの母の五女として生まれた。長姉の劇作家、長谷川時雨は文名も高く、ブロマイドが人気となるほどの美貌で、まさに才色兼備の女性であったという。長谷川時雨の『旧聞日本橋』(岩波文庫)を齧っただけだが、往時の通油町の風情と人情を仄かに感じる文章だった。時雨も蔦重もよく知らず、三宅書店の女主人に見聞を聴かせてもらう機会を逸したのが悔やまれる。
豊かな資力と父・姉の人脈をもとに、春子は日本画の鏑木清方から転向して、洋画家の梅原龍三郎に師事し、1929年にはパリ留学を果たし藤田嗣治の知遇を得ている。戦時色が濃くなる中で、満洲や蒙古、仏印などへ「特派」され、文筆と絵筆を振るいながら軍部との関係が深まっていった。
1943年に長谷川春子が中心となって「女流美術家奉公隊」が結成され、少年兵募集の為の展覧会を開催し、今回展示されている『大東亜戦皇国婦女皆働之図』の制作を行った。戦争末期の窮乏期に、軍部との関係が深かった長谷川春子経由で鉄道切符の入手や画材の提供を得られたことが、奉公隊における彼女の求心力になったことは想像に難くない。
1944年に制作された皆働之図「春夏(186.0×300.0)」「秋冬(187.1x299.7)の作者は全員が女性、描かれた題材は42の労働に従事する女性ばかり(「銃後」に在って祈るだけの存在から男に代わって労働する女性へ)。構図分担の指揮は長谷川春子が執り、誰がどの部分を描いたかは一部しか分からない(戦後、奉公隊に参加して描いたことを隠したい人も居たようだ)、長谷川春子が「春夏」図の中央に旋盤工を描いていることは確かである。第一次産業の画材がキャンパスの周辺にあり、砲弾製造・選炭・戦闘機製造・鋳物工など「男まさり」の図が中央に配置されている。
素朴な構図、写生ではなく写真を見ながら描いたような部分もある。働く女性の表情は乏しく。多くの視線は下を向いている。色彩も暗くて重い、活力を喚起する力が乏しいので、美術作品なのか?はたまた誰かに強制されて描かされたプロパガンダなのか?判然とせず感動に乏しい。1944年に油絵筆を持つ希少機会を得た女性たちによる「戦時下の記録」であることは確かだと思う。
戦後、長谷川春子に座る席はなく、画壇から離れた福岡で孤独死したと伝えられている。
ミュージアムショップにも、展示会のチラシや図録はなかった。
この展示会に同行してお喋りをしたかった先輩は急逝してしまい報告もできない。
『女性画家たちと戦争』吉良智子(平凡社)をバッグに入れて、通夜の席へ向かった。
10月はノーベル賞の季節でもある。先ず坂口志文氏が生理学・医学賞を授与された。
とても喜ばしい気持ちになっている。研究内容の報道記事を読みながら、ふと思いついて先輩から送って貰った『免疫の意味論』多田富雄(青土社・1993年)を取り出した。
この本のはしがきには「・・・免疫が・・・生命科学の中心に位置するようになったのは比較的最近のことである」とあり、あとがきには「免疫学は、現代の生物学で最も急速に進展しつつある分野のひとつである。・・・免疫学がいまあまりに急速に進展しているために、それを研究している同業者だけでホットな議論が続いていて、とうてい一般の方にわかり易くお話するなどという余裕がないからであろう。」ということで「なんとかふつうの言葉に翻訳することができないだろうか。」との意識で書かれたとある。
多田富雄氏が噛み砕いてくれた言葉や文章であってもなかなか咀嚼できず、取っ付きがよくないだろうと推測した先輩からの添え文には、
「免疫システムの主役はT細胞とB細胞、そのT細胞は胸腺(Thymus)由来で、胸腺は八十歳位でほとんど退縮してしまう・・・。老化の大きな要因ですね。」と簡潔な要旨が書かれていた。先輩は八十六歳まで退縮しないままであった。
この本が書かれて30年余り、研究は更に深まっていることだろう。ただ「免疫」「胸腺」「T細胞」「自己・非自己」といったことの基礎を早い時期に啓示してくれた多田富雄氏と著作のエキスを遺してくれた先輩に改めて感謝している。
10月初め、九州中津市への墓参のあと、隣の宇佐市の旧宇佐海軍航空隊跡や城井掩体壕跡を訪れた。基地には終戦時に6,100人の隊員がいたという。少年兵募集ポスターを見て志願した10代半ばの人たちもいたことだろう。その一人、中学4年生だった実父も覚悟の志願をしたと想像するが、内地訓練段階で帰郷し、その後の流転を経て、菩提寺の墓碑に名前がおさまっている。城井掩体壕跡は整備されて公園になり、中央の特攻隊戦死者追悼の石碑には当然ながら父の名前は刻まれていない。
村上春樹に先行して日本出身の3人目のノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの長編デビュー作、『遠い山なみの光』が映画化された。原作者も映画製作に参画している。1950年前後の長崎と現在のイギリスを舞台にした、複雑な筋立てなので、二度観ても一概に面白い映画と言えないが、「敗戦の屈辱」「戦後の出発点」を考える機会になった。
三浦友和が公職追放された元校長役を好演していて印象に残った。
宇佐にしても、長崎にしても「戦後の出発点」の大切な場所だと思う。
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